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映画BEST/2011

 2010年に「映画」を観た記憶はほとんどない。「生活」の記憶がないので当然なのだが、「映画」を観た自分の記憶がないゆえに、「生活」の記憶が残らなかったのではないか、と疑いたくなるほどだ。そういった意味では、本数こそ少ないが、2011年はふたたび「映画」を通じて、モノを考えるようになったので、鑑賞した「映画」を振り返ってみると、なんとなくだが《思考の痕跡》のようなものが浮かび上がってくる。これは「詩」においてもまったく同じことがいえる。
 むろん、「映画」に求めるものは以前と異なってきているし、たとえば「異物」を取り入れて嬉々とするような見方には倦んでしまったし、話題作を欠かさずに観るという情熱などとうにない。こちらから無理に「映画」を捕まえにいくのではなく、ふと作品の側から呼ばれて軽い気持ちで観にいく。そこに過度の期待はない。そこでシンクロが生じたら儲けもの位のスタンスだ。
 とはいえ、見逃して後悔している作品は結構ある。でも贅沢はいわない。映画も観られない本も読めないという精神状態で、ひたすら悪魔の声を浴び続けた時間に比べたら、「映画」と対峙している時間はヘヴン以外のなにものでもない。「物語」には力がある。そしてひとは、「物語」を持続させる術や変容させる術を持っている。いつだって必要なのは、量ではなく質である。エッセンスを見誤らないひとは、どんな非常時においても、《自己》や《他者》を再生することが可能であるはずだ。
 映像や言葉の表現は、《わたし》のなかの欠損や余白をカバーしてくれる。押し殺していた感情や忘れてしまった感覚を取り戻すための手助けをしてくれたり、未知の時間を疑似体験させてくれたり、時にはただただ笑いをもたらしてくれたり、もちろんそこには「情報」も含まれているが、おそらくひとは、「情報」を養分とすることはできない。「情報」には力がない。持続させるために新しいネタを常に必要とする「情報」に限界があるのは当然だろう。
 しかし、ある種の映像や言葉を介して触れる「情報」ならば話は別だ。それらが「知識」へと変質する可能性はかなり高いのではないか。知っていることを改めて別の角度から知るということが重要な気がする。あるいは他者の身体を借りて知ると言い換えてみてもよい。「映画」を観る多くのひとが求めているのも、そんな答えあわせなのかも知れないという気がしてくる。

 今年、最後に劇場で観た映画は、『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦 MEGA MAX』であった。クリスマスプレゼントのつもりで5歳の甥っ子を連れ出して、近所のシネコンに二人で駆け込んだ。山盛りのポップコーンを頬張りながら、画面に釘付けになってる甥っ子の横顔を眺めていたら、なんだか胸がいっぱいになった。戦闘シーンよりも友情や恋愛を描いた場面でよりいっそう目を輝かせている甥っ子を見て、「映画」の醍醐味はきっと変わらずここにあるのだろうと強く思った。「なま足」サビースが随所にあって、「ちくしょう、大人も楽しめるじゃねえかコノヤロー」と思いながら、甥っ子と同じくらい映画を純粋に楽しんでいる自分がいた。もちろん、家に帰ってから、(仮面ライダーの)甥っ子にボコボコにされた。正義ってなに?

 トータルで100本にも満たないが、今年はコンディションと相談しながら、ひとつひとつの作品を丁寧に観たこともあってか、観たあとの余韻をずっと引きずっているものが多い。むろん、「映画」との距離の取り方を変えたのもひとつの要因ではあるだろう。単純に良作の多い豊かな年だったのかも知れないが、シネフィル未満の自分にはそれは語り得ないことだし、マイペースで個人的な鑑賞を心がけている自分にとって、「総展望」はあってもなくてもどちらでもいい。デザートみたいなものだ。
 と言いつつも、なにかしらの痕跡を残しておこうと考えた。先日、映画好きの集い(忘年会)に参加させてもらって、ワインを飲みながら、自由気ままに「映画」について語り合ったのだが、これが思いのほか楽しめた。そして、いよいよ自分の「映画」に対するスタンスがはっきりとしていくのだった。

 とりあえず以下に、2011年に鑑賞した映画をすべて羅列してみよう。

(制作年順、五十音順)

■…映画館

■アウトサイド・サタン<2011>(監督/ブリュノ・デュモン)
■アントキノイノチ<2011>(監督/瀬々敬久)
■ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン<1973-2011>(監督/ニコラス・レイ)
■永遠の僕たち<2011>(監督/ガス・ヴァン・サント)
■仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ<2011>(監督/坂本浩一)
■劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴りやまないっ<2011>(監督/入江悠)
■恋の罪<2011>(監督/園子温)
■ここ、よそ<2011>(監督/ルー・シェン)
■孤独な惑星<2011>(監督/筒井武文)
■サウダーヂ<2011>(監督/富田克也)
■ツリー・オブ・ライフ<2011>(監督/テレンス・マリック)
■東京公園<2011>(監督/青山真治)
■トーキョードリフター<2011>(監督/松江哲明)
■ブンミおじさんの森<2011>(監督/アピチャッポン・ウィーラセタクン)
■−×−(マイナスカケルマイナス)<2011>(監督/伊月肇)
■モテキ<2011>(監督/大根仁)
■惑星のかけら<2011>(監督/吉田良子)
■わたしたちの夏<2011>(監督/福間健二)
■海炭市叙景<2010>(監督/熊切和嘉)
■カルロス 第一章<2010>(監督/オリヴィエ・アサイヤス)
■さすらいの女神たち<2010>(監督/マチュー・アマルリック)
■SOMEWHERE<2010>(監督/ソフィア・コッポラ)
■FIT<2010>(監督/廣末哲万)
■ヘヴンズ ストーリー<2010>(監督/瀬々敬久)
■名前のない男<2009>(監督/ワン・ビン)
■クリスマス・ストーリー<2008>(監督/アルノー・デプレシャン)
■原油 1部<2008>(監督/ワン・ビン)
■パレルモ・シューティング<2008>(監督/ヴィム・ヴェンダース)
■最後の手紙<2001>(監督/フレデリック・ワイズマン)
■コメディ・フランセーズ/演じられた愛<1996>(監督/F・ワイズマン)
■ひとりで生きる<1991>(監督/ヴィターリー・カネフスキー)
■ぼくら、20世紀の子供たち<1993>(監督/ヴィターリー・カネフスキー)
■臨死<1989>(監督/フレデリック・ワイズマン)
■15日間<1980>(監督/鈴木志郎康)
■アデュー・フィリピーヌ<1962>(監督/ジャック・ロジエ)
■カルメン故郷に帰る<1951>(監督/木下恵介)

□…VIDEO、DVD、CS、VODなど

□終わってる<2011>(監督/今泉力哉)
□奇跡<2011>(監督/是枝裕和)
□婚前特急<2011>(監督/前田弘二)
□ソーローなんてくだらない<2011>(監督/吉田浩太)
□花つみ<2011>(監督/サトウトシキ)
□魔法少女を忘れない<2011>(監督/堀禎一)
□乱暴と待機<2011>(監督/冨永昌敬)
□ring my bell<2011>(監督/鎮西尚一)
□若きロッテちゃんの悩み<2011>(監督/いまおかしんじ)
□悪人<2010>(監督/李相日)
□足手<2010>(監督/今泉力哉)
□アブラクサスの祭<2010>(監督/加藤直輝)
□イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ<2010>(監督/バンクシー)
□インセプション<2010>(監督/クリストファー・ノーラン)
□嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん<2010>(監督/瀬田なつき)
□告白<2010>(監督/中島哲也)
□SR サイタマノラッパー2<2010>(監督/入江悠)
□ザ・タウン<2010>(監督/ベン・アフレック)
□ソーシャル・ネットワーク<2010>(監督/デヴィッド・フィンチャー)
□その街のこども 劇場版<2010>(監督/井上剛)
□たまの映画<2010>(監督/今泉力哉)
□冷たい熱帯魚<2010>(監督/園子温)
□DOCUMENTARY of AKB48 to be continued<2010>(監督/寒竹ゆり)
□ヒア アフター<2010>(監督/クリント・イーストウッド)
□ブラック・スワン<2010>(監督/ダーレン・アロノフスキー)
□エヴァンゲリヲン新劇場版:破<2009>(監督/摩砂雪&鶴巻和哉)
□渇き<2009>(監督/パク・チャヌク)
□ゴールデンスランバー<2009>(監督/中村義洋)
□最低<2009>(監督/今泉力哉)
□白いリボン<2009>(監督/ミヒャエル・ハネケ)
□ソフィアの夜明け<2009>(監督/カメン・カレフ)
□台北の朝、僕は恋をする<2009>(監督/アーヴィン・チェン)
□ちゃんと伝える<2009>(監督/園子温)
□春との旅<2009>(監督/小林政広)
□パンドラの匣<2009>(監督/冨永昌敬)
□白夜<2009>(監督/小林政広)
□ペルシャ猫を誰も知らない<2009>(監督/バフマン・ゴバディ)
□ミスター・ノーバディ<2009>(監督/ジャコ・ヴァン・ドルマル)
□結び目<2009>(監督/小沼雄一)
□ユキとニナ<2009>(監督/諏訪敦彦&イポリット・ジラルド)
□リミッツ・オブ・コントロール<2009>(監督/ジム・ジャームッシュ)
□息もできない<2008>(監督/ヤン・イクチュン)
□シャーリーの好色人生と転落人生<2008>(監督/冨永昌敬)
□罪<2008>(監督/いまおかしんじ)
□エヴァンゲリヲン新劇場版:破<2007>(監督/摩砂雪&鶴巻和哉)
□シルビアのいる街で<2007>(監督/ホセ・ルイス・ゲリン)
□微温<2007>(監督/今泉力哉)
□引き裂かれた女<2007>(監督/クロード・シャブロル)
□お姉ちゃん、弟といく<2006>(監督/吉田浩太)
□時をかける少女<2006>(監督/細田守)
□甘い罠<2000>(監督/クロード・シャブロル)
□沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇<1995>(監督/クロード・シャブロル)
□主婦マリーがしたこと<1988>(監督/クロード・シャブロル)
□ラヴ・ストリームス<1983>(監督/ジョン・カサヴェテス)
□ディーバ<1981>(監督/ジャン=ジャック・ベネックス)
□イレイザーヘッド<1976>(監督/デヴィッド・リンチ)
□宵待草<1974>(監督/神代辰巳)
□さすらい<1971>(監督/佐々木昭一郎)
□マザー<1971>(監督/佐々木昭一郎)


あまり熟考はせずに、ランキングなるものを作成してみた。
なにがポイントかをひとことで言うとすれば、「批評が書きたくなる気持ち」です。
1位から5位は、かなり長めの映画批評を書けると思った。それぞれに強烈に擁護したい部分があった。
時間が許せば、ほんとうは書きたかった。いま現在の「自分自身の映画愛」が語れたはずだ。

【新作映画/BEST20】

1 さすらいの女神たち(マチュー・アマルリック)
2 ブンミおじさんの森(アピチャッポン・ウィーラセタクン)
3 婚前特急(前田弘二)
4 ヒア アフター(クリント・イーストウッド)
5 惑星のかけら(吉田良子)
6 ザ・タウン(ベン・アフレック)
7 ソーシャル・ネットワーク(デヴィッド・フィンチャー)
8 サウダーヂ(富田克也)
9 東京公園(青山真治)
10 引き裂かれた女(クロード・シャブロル)
11 孤独な惑星(筒井武文)
12 FIT(廣末哲万)
13 嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん(瀬田なつき)
14 SOMEWHERE(ソフィア・コッポラ)
15 パレルモ・シューティング(ヴィム・ヴェンダース)
16 ソーローなんてくだらない(吉田浩太)
17 イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ(バンクシー)
18 永遠の僕たち(ガス・ヴァン・サント)
19 ブラック・スワン(ダーレン・アロノフスキー)
20 トーキョードリフター(松江哲明)

次点 アントキノイノチ(瀬々敬久)
次点 わたしたちの夏(福間健二)
次点 ミスター・ノーバディ(ジャコ・ヴァン・ドルマル)

【旧作映画/BEST10】

1 甘い罠(クロード・シャブロル)
2 アデュー・フィリピーヌ(ジャック・ロジエ)
3 白いリボン(ミヒャエル・ハネケ)
4 臨死(フレデリック・ワイズマン)
5 さすらい(佐々木昭一郎)
6 クリスマス・ストーリー(アルノー・デプレシャン)
7 沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇(クロード・シャブロル)
8 ぼくら、20世紀の子供たち(ヴィターリー・カネフスキー)
9 リミッツ・オブ・コントロール(ジム・ジャームッシュ)
10 シルビアのいる街で(ホセ・ルイス・ゲリン)

次点 息もできない(ヤン・イクチュン)
次点 ユキとニナ(諏訪敦彦&イポリット・ジラルド)
次点 ソフィアの夜明け(カメン・カレフ)

【WORST5】

1 劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴りやまないっ(入江悠)
2 花つみ(サトウトシキ)
3 白夜(小林政広)
4 お姉ちゃん、弟といく(吉田浩太)
5 悪人(李相日)

【特別賞】

0 時をかける少女(細田守)
1 モテキ(大根仁)
2 DOCUMENTARY of AKB48 to be continued(寒竹ゆり)
3 台北の朝、僕は恋をする(アーヴィン・チェン)
4 魔法少女を忘れない(堀禎一)
5 ring my bell(鎮西尚一)

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CDレビュー『みんなを屋根に』
屋根に


2010年11月13日・土曜日。
シンガーソングライターの三村京子さんから、
ニューアルバム『みんなを屋根に』が贈られてきた。

【プロローグ】

三村京子さんとは「出会い系サイト」で出会った…
というのは嘘で! 路上の片隅でギターを抱えた、
小さな女の子に投げキッスをされて…なんてのも、
まったくのデタラメちゃんで、
「彼女自身による三村京子」というテキスト、
そうそれは、あのロラン・バルトの名著への、
素敵なオマージュだ! その紙切れを拾ったのだ。
その紙片に書かれた電話番号に僕は直ぐさまTEL…
テルシテインシテ アタマノナカヲ ハロー注意報。

彼女はW大学文学部の学生だった。
僕は直ぐさま肛門をくぐり、口内に潜り込んだ。
阿部嘉昭教授の「サブカル論」という授業だった。
(僕は映画評論家の阿部嘉昭氏を知っていた!)
授業終了後の「裏授業(酒席)」にも参加した。
そこで、三村京子さんの音楽への「本気」を聞いた。
阿部さんの、大中くんの皆の音楽談義に耳を傾けた。
(専門学校生の僕は、大学生気分を味っていた)

三村さんの「声」を「音」を知らないまま、
後日、高円寺・円盤のライヴに足を運ばせて頂いた。
残念ながら、脳天直撃とまでは逝かなかった…
(その頃僕はフォークトロニカに傾倒していた)
なんとなく古風な… 音の足りなさで不満足??
そのときだった! 「Hello,west orange」が流れた。
「流れ星みたいな 出会いだった!」
所謂、トーキング・ブルース調の逝かしたやつ。
これがツボにはまった。(いまだに一番好きな曲)
帰り道、ずっとその唄が脳内でルフラン&ルフラン。
「煙草 一箱 とがった味の 
 3階の窓 非常階段の上で
 ひとり 煙吐くんだ 
 泣きたくなるほど 風を 感じて〜」
(この時はまだ白い声の魅力に気付いてなかった…)

それから度々、阿部氏の授業に潜り込むようになり、
三村京子さんのライヴがあれば、足繁く通った。
(しかしいつも、タイトルと曲は一致しないまま)
歌詞にも、演奏力にも、耳が傾くことはなかった。
そんなことは大した問題ではなく、
小さな身体から発せられる「声」に秘密はあった。
少し陰りのある、淡い、透明な声に…注目が逝った。
それが決定的に「(音楽家の)存在」としてあった。

僕が聴く女性アーティストはかなり限られている。
Bjork/mum/Janis ian/Cat Power/Nico/Pixies
Patti Smith/carla bruni/Joni Mitchell/The White Stripes
Sigur Ros/Supercar/Chara/Love Psychedelico
椎名林檎(from東京事変)/宇多田ヒカル/安藤裕子
中島みゆき/やくしまるえつこ(from相対性理論)etc.

三村京子さんの出自、音楽のルーツはどのあたりに?
1st『三毛猫色の煙を吐いてあなたは暮らすけど
私は真夜中すぎの月の青さのような味の珈琲を一杯』
(2005年10月22日・発売)
を聴く限りでは、70年代フォークの影響ありかな?
なんて思ってみたりみなかったり…J−POPへの視線は?
歌詞は確かに「私語り」の、弾き語りなんだけれども、
「あなた」の頻出には、少女の憧憬を見て取れるが、
「その場所」にとどまっていられない焦燥感があった。
自身の女性性/身体性に意識的で、それがそのまま、
楽曲の発想と強く結びつき、独自性を産んでいた。

これは蛇足になるけれど、
僕が監督した卒業制作映画のエンディング曲で、
「月夜の宅急便」という佳曲を使用させて頂いた。
卒業後には、「連詩大興行」
(http://www.geocities.co.jp/renshidaikogyo/)
に三村さんの推薦で、引き入れてもらった。
そんな経緯の中で、三村京子というミュージシャン、
彼女との距離感が育まれ、同調の姿勢が問われ始める。
彼女の「音」と「言葉」への挑戦に期待が膨れた。

そんな中、三村さんの新しいアルバム発売が決定!
2nd『東京では少女歌手なんて』という、
人を喰ったようなタイトル…否、これは自嘲なのか?
(とてもステキな題名だと思っている。)
(2008年4月13日・発売)
一聴して分かることは、前作に比べ格調が高いこと。
阿部嘉昭氏の介入が、世界観を押し拡げていること。
コントラバス奏者の船戸博史氏のプロデュースが、
決定打であった! 明確な一本の線を導いている。

「新しいポップ、懐かしい声ーー」という惹句。
僕の言葉で言えば、ファニーとグルーミーの調合。
(楽曲の配置が練られていて素晴らしい!)
「ネオ・フォーク」という区分があるらしいのだが、
僕はあえて、「ポスト歌謡曲」だと主張してみたい。
この作品における三村さんの「声」は安定している。
声色もきっちりと使い分け、ブレスも適確であった。
ライヴで、聴き知っていた曲もあり、愛着が湧いた。
有無を言わさぬ、愛聴盤(哀調版)となっていった。
とりわけ個人的には、
「CRAZY TUNE」「月が赤く満ちる時」
「別の肉になるまで」「岸辺のうた」がお気に入り。

この2ndアルバムのレコ発ライヴ・イベントでは、
ビデオ撮影を担当させて頂いた。(未発表である)
三村さんはライヴによって、ムラがある歌手だが、
この日の、演奏、歌声はなかなかのものだった。
(ご覧頂く機会が得られればいいと思うのだが…)

さて、恣意的に言葉を取り出してみよう。
「銃剣を背に負って
 母親を取り返す…」
「世界は 狂ってる 石油といくつかの宗教で
 たくさんの 女たちが泣く」
「夜を重ねて 何を待つのか
 待つことだけを覚えてはゆく」
「透明ですから 声としてしか
 声としてしか 会えないのです」
「夢の小唄が過ぎれば
 乾いた心も尽きれば
 どうせ 自殺だもの」
「彷徨い迂回し 繰り返してみる」
「否定されたーー
 私には まだ 風が無いと
 ドアを 閉ざされた
 もう駄目?
 駄目?
 別の花を纏うまでは
 別の肉になるまでは」
「本当はいつも 今がみえない
 本当はいつも 今がみえない みえない」
「今でもまだ 見つからないーー
 昔みたいな眠り方が。」
「ズレ続けて はぐれ続け
 いても重なる
 死海に幾波(いくなみ)あるのかしら
 一つ、二つ、百億個の波が死んでいる」

3rd『みんなを屋根に』が届けられた現在、
「東京少女」を改めて振り返ってみると、
それは、とても、「暗い(cry)」のだった。
バラッドの層が思っている以上に深く、儚い。
(三村京子という女は懸命に泣いている)
代表曲「岸辺のうた」においては、実直に、
「不如意」という言葉が姿を現しているのだ。
一曲一曲の長さも、ここでは問題になる。
なぜなら、『みんなを屋根に』の楽曲群が、
素晴らしい削り込みをほどこされているから。
「東京少女」では、時々気詰まりを感じる。
(カタルシスが起こらないのだ!)

さて、やっと、新譜『みんなを屋根に』へと、
言及できる態勢が整った!
(2010年10月13日・発売)
何せ僕は「音楽」の印象批評が苦手なのだ。
(音楽ばかりではない詩や映画に対してもだ)
なぜ僕がこんな文章を認めているのか、
それはひとえに「三村京子」を認知して欲しい、
もっともっと沢山の人に届いて欲しいとの理由。
(楽曲分析などできないが感触位を少しはね)

まず最初に言えることは、
ジャケット写真の魅力だ。魚返一真氏が撮影者。
ジャケ買いを誘うのに充分な仕事、戦略である。
2ndに通じるが、郷愁に満ちていて、もう既に、
「アルバムの中の音」を予感してしまう雰囲気。
だが、オープニング曲は、それを見事に裏切る。
(バンド音を鳴らすのだった!)

1 黒い花

イントロに、ギョッとし、そのまま疾走感が、
速度をぐんぐんとあげて 急ぐ 奔る 逝く。
「この腕でもいいのなら この声が届くなら
 あの日あげた花粉をどこへしまった?」
という最初の二行で、歌い手の決意を受け止めた。
ここでの三村さんの声は「白」ではなく、
タイトルの通り「黒み」を帯びているのだった。
(元々、三村さんの声には、黒が潜伏していた)
この曲を一発目に持って来たという決断が、
どれだけ正しい振る舞いなのかはファンであれば、
お分かり頂けるだろう。
初聴の方でも、心をグッと鷲掴みにされるはずだ。
「友だちはブラウザで泣くことを知っていた
「乱暴にされないのがわからない」
 速さだけ 子どもたち、信じてた」の詞が秀逸。

2 くつをとばせ

疾走感が続くと予感させられた後の、この転調!
まんまとハメラレタ。ヤラレタ。ホレタ。ナケタ。
しかし、この曲はエポック・メーキングですねぇ。
これまでの三村&阿部の詞作術とは明らかに隔絶が、
実力派詩人・杉本真維子氏を招集しているためだ。
赤、浴室、髪、足首、鏡、空、雨、指先、そして靴。
これらの要素が自然と融解、女の像はブレない。涙。
「ねえ髪を濡らすと
 どうして悲しくなる?
 鏡に映る空
 あなたよ、くつをとばせ、せめて高く」
このサビ部分の言葉とメロディーが最高潮だろうか。
(ライヴで一度聴いていたが、ここまで素敵とは)

3 宮殿

奇想天外で、正直、読解不可能な曲のお出ましです。
ピアノが用いられていることに、
いろいろなノイズが紛れ込んでいることに、
突如、「語り」にすり替わることに、
いろんな角度から戸惑いながらも、強い印象を残す。
これは、三村さんなりのプログレ解釈なのかしら?
ともかく、ソングライティングの幅が拡張した事実。
「わたしみたいに 変わった匂いがして 
 数字で 組み合わされた 腕腕
 数式のようでも 艶めいて」の詞にドキリとする。

4 猫が毛玉を追う

ここで登場するのが、
三村さんお得意のファニー&ファンシーな一曲。
(1stの「ZAZEN BOY SONG」発祥)
三村さんは「猫」をモチーフに唱い続けている。
1st所収の名曲「教室」の中では、
「教室の中の血だらけの猫が 知っている」と。
2nd所収の佳曲「深夜の猫」ではニャアニャア。
今回は、ついに「猫が地上で消える」という案配。
擬音遊びは、もはや三村&阿部の定石となってる。
このファニー・ゲームを喜ぶファンは多いだろう。

5 空の茜

イントロから名曲感たっぷりの、スローバラッド。
アルバムの「5曲目(bridge)」に相応しい対応。
全行に素直な、聴き取り易い言葉が並ぶ。
それゆえに万人受けする名曲へと仕上がっている。
「塔など見える訳ないよ」と一行目から吼えてる。
「そこに何かあると思ってはだめだよ」と忠告し、
「出られないよ 君はその君の身体の檻を
 いくら折ってみたって
 やり直すことだってできるはず それまで
 君が泣くところを見ているよ」と主体の僕は、
森羅万象の「本当」の側から優しく俯瞰してる。
(「祭り」という言葉は、後の曲でも現れる!)

6 すべて、トランプ

さながら子守唄のような曲。白い声。白昼夢。
「寝醒めたその日の 白いティーカップ
 地球のように回って、消えてゆく」
このAメロが決定的に美しく、その時点で降参。
しかしながら、
「酒と薔薇の日々は床の上に積もり…
 散って…」と三村さんが唱うとなぜか新鮮。
「父親でいて お願いよ
 心の言葉、重い
 喋らなくてゴメン
 心の中は、黒い」の部分が不思議でいて謎。
(この曲はライヴで何度か聴いていて好きだった)
水平線、糸、鏡面、溶ける、沈む、消える、散る。
それら一貫した言葉が選び抜かれ、像は定着する。
白いティーカップの中の珈琲に混じりゆくミルク?
すべて、トランプ? トランプの解釈が難しい…

7 テラチタ・テラトトレ

アルバム中、一番の難曲。(弾き手も聴き手も?)
もはや僕の能力では限界であります。
くるめきマシーン?
亜剌比亜風呂?
みづうみ笛?
ごにんの恋? 五人の恋? 誤認の恋? どっち?
グラモフォン(蓄音機)とかサキスフォンとか、
それが、テラチタ・テラトトレ?
イントロで、世界観にグイッと引き込まれる。
(なんか恐い童話の中みたいなところに)
3曲目同様、ここではピアノが選択されている。
それがコントラバスとの奇妙な邂逅を果たしてる。
どこかアニメの主題歌になりそうな奇想な産物だ。

8 変身

ここは素直に、ゲーム(遊戯)を興ずるに沿って。
それは左右に分けられたギタリストの演奏合戦だ。
僕が聴き慣れているのは「Cheval De Frise」という、
フランスのギターインストディオのそれなのだけれど、
彼女は、B.Jansch&J.Renbournにinspired byだと。
参加ギタリスト・牧野琢磨氏のアルバム貢献度は高い。
ここでの二人のアコギ対決は、ライヴでも期待される。
歌詞はそのまま、「変身」が唱われていて齟齬はない。
「いずれ… いずれ…私が変わればいい
 私が変われば それは すてき」

9 銀鱈のブルース

前曲の空気感を受け継ぐカタチで、ここでも、
三村さんはギターテクニックを惜しみなく披露。
相違点は、三村さんの真骨頂であるブルース調。
それは、「Hello,west orange」に始まって、
「女子高生ブルース」「有為転変ブルース」を経て、
今回のブルースは、ブルース中のブルースだ!
(録音は、Live at 円盤(高円寺)2010.5.15)
とあり、拍手や観客の「yeah〜ho〜」などが混在。
ライヴに居合わせている感覚を得る、即興曲だ。
「銀鱈」「西京味噌」等の言葉の取り合わせがいい。
この曲も、5曲目同様、アルバムのブリッジで、
以降、「屋根」に向って、一気呵成に駆け抜ける。

10 恋するモドキ

アルバム中、いちばん中庸をいっている曲となる。
歌詞もメロディーラインも自然で、愛聴℃が高い。
イージー・リスニングと言える危惧があるけれど、
歌詞に注目すると、「落涙注意」の看板。
サビの部分が特にいい。
「何よりまだしも自分、
「水もない」「海もない」
 からだがあるだけ
 正気でもって向うけど
 帰りたくなる、バラバラこぼれるから。」
とても伸びやかに唱っている。
(この曲もライヴで体験済みだったが最高だ)

11 いつもそこを出てゆく

バンド編成に見合った一曲。
脱力系の明るい曲。たぶん、いちばん明るい曲。
スタスタ鳴ってるドラムス、
(裏拍子、バックビートってやつかな?)
ギュンギュン鳴ってる二つのギター、
(リードギターが抗って、うねってるよ)
ボンボン単調に鳴ってるコントラバス、
二重ボーカル、ララララララいってるコーラス、
「どーでもいいさ、性など
 流れくる far/cry
 どーでもいいさ、愛など
 壊れだす blue/sky」
と唄われる通りなのだ。
「三村&阿部」は実は、不如意でありながら、
「いい加減」を志向できる芯の強さを持ってる。
女性性/身体性との闘いは真面目に真実だが、
それは逆転して、「すでに敗北」というのも理。
そんなときは、いつもそこを出てゆこう!
(この曲はライヴでバンド編成で体験済み、
 収録にあたって、編曲が成された模様…)

12 夜に消える

ほんとうに、消え入りそうな声で唱っている。
曲中で、ふたつの声を使い分けている。
「すべて、トランプ」とは別の位相で、
スリーピーな曲となっている。少女性と母性。
「ねえ一緒に透[と]けよう?」の囁きがいい。
「夜が明けるまえに
 すこしずつ消える」という素敵なフレーズを…

13 敗けたい気持ちを持つと

…すぐさま翻すような、切り裂くような、
痛快なバンド音を鳴らす、挑発的な一曲。
「敗けたい気持ちを持つと
 心の根拠が消える」
なるほど、実に明快な意志を持った冒頭だ。
「去りたい気持ちをもつと
 心の故郷もゆらぐ」
なるほど、実に上手な展開を持った言葉だ。
「まるでこの感触など鳥の孤独だ」
というフレーズからの転調が一番良い転調。
気を抜くと、そこらのJ−POPに、
悉く回収されてしまいそうな曲調だけれど、
それを良い歌詞がぎりぎりの所で保ってる。
三村さんが限りなくJ−POPに歩み寄った答。
「大丈夫です。かっこいいです!」
「でも最初、ダサって思ったよ」
「ライヴで聴いたらきっと乗ると思います」
そんなこんなで、いちばん裏切られた曲だ。
つまり、とてもとても良い意味で。

14 私は終わらない

引き続き、バンド編成の一曲。
これは数回、ライヴで聴いていた曲だ。
(そのときはアコギだったような…)
(いや、バンド編成でも聴いたっけな)
これが噂の「私は終わらない」だったのか…
ようやく合致した。
非常に明確なタイトルだが、
歌詞の内部をひとしきり覗いてみれば、
意外にも手強い現代詞であると知れる、
ちょっと神話的なのかなぁ…
耳で聴いているだけだと像が浮ばない。
歌詞を読んで、やっと聴ける感じだった。
この曲で例の「祭り」という言葉が現れる。
三村さんの曲における「祭り」とは何か?
この疑問が、中空にポカンと浮んでる。
「 祭りが終われば残らない
 コップの底の 砂糖の痕も
  火事が終われば残らない
 ピアノの中の 銀の微塵も。」
そしてラストは、
「「私」はそれでも終わらない
  言葉と歌の あいだの谷間
   思いはそれでも尽きない
  石瑛と空の あいだの地に。」
雲母[キララ]や石瑛の耀ふ様に見とれて。
本作の中で、いちばん壮大な曲かもと思う。

15 みんなを、屋根に

ついに表題曲、「みんなを、屋根に」へと、
辿り着いたわけでありますが、
ここで告白しなければなりません。
僕は、この曲を聴いて、心が洗われました。
それは瞬時に。この漲る多幸感は一体なんだ!
素晴らしき、噴水の、大洪水の、カタルシス!
僕はアルバムを通して聴いた、その直後に、
三村さんに携帯メールをした。ひとこと、
「素晴らしい!」と、
しかし、僕は言葉を間違えていました。
本当は、「ファンタスティック!」と、
言うべきだったのです。
「ファンタスティック」とは、
「空想的・幻想的」という意味なのですから。
この曲における「声」は、
三村さんが発した今までのどんな「声」とも、
違っていて、それはまさしく、金や銀の…
あるいは、それにさえ属さない「声」だった。
三村さんの作曲力は見事に開花したようだ。
こんなステキな旋律を奏でられるとは戦慄だ。
バンド・メンバーが、それを後押ししている。
(Hand clapが、またツボってしまう要因)
阿部嘉昭氏の作詞も冴えに冴えまくってる。
ユリイカに掲載された詩「みんなを、屋根に」
どうやらそのショート・ヴァージョンでも、
ないみたいだ。新たに認められたものだろう。
それにしても、アルバム全体を通して、
「消える」という着想、言葉が多くみられる。
それはやっぱりファンタジーへの志向か…
それは無論、虹色の物語で一筋縄ではいかない。
「みんなを、屋根に」
それはまるで「ノアの箱船」のようなものを、
確実に連想させる。遡行する…各曲目へと…
すると、言葉と言葉の関連性が、
また別の視座を与えてくれて、何度となく、
この傑作アルバム『みんなを屋根に』を、
惜しみなくリピートさせるという有様である。
初聴(初潮)の時点で僕は、とっさに、
「みんなを、屋根に」という曲は、
The Beatlesの「A Day In The Life」に比肩する。
それほどのカタルシスを持つエンディングだと、
思ったほどでした。(嘘じゃないよ)
否、この曲が最後に襲来してこなければ、
それほど感動することはなかったかも知れない。

【エピローグ】

前二作は、フォークやブルースを基調とした、
「ポスト歌謡曲」だったわけですが、
それは紛れもない「声」のアルバムだった!
本作『みんなを屋根に』は豪華絢爛な、
そして猶且つストレンジで、予測不能な、
「ポスト・ロック」の部類と言って良いだろう。
今回は、「ROCK BAND」への挑戦だった。
ソロとバンド編成の奇蹟的な融合が見られる。
三村京子というミュージシャンは、長い旅の果て、
確実に「進化(深化)」していったのだと感じる。
来るライヴがとても楽しみになった次第である。
大いに期待が持てる。(さぁ、足を運ぼう!)
そして次回作には、どんな展望が待ち受けてるのか。
とりあえず、新譜を未聴のみなさんは、
直ぐさま、全国のレコード店へ、
『みんなを屋根に』を求めて走っていってください。
これは音楽通だけが独占する類いのものじゃない。
万人に受け入れられる代物だと言える。
三村京子さんがメジャー・デビューする日を、
夢見ている。心の底から待ちわびている今日この頃。
「露に乞食が
 また浮びまた消える
 おカネおくれよ
「生きられない」「消えそうだ」
 夜にもつれた、みんなを、屋根に」

以上、長ったらしい拙い文章、印象批評を最後まで、
お読み頂き誠にありがとうございました。
しばらく、筆を休めていたのですが、
この新譜に触発されて、またぞろ詩なんてものを、
こしらえようかと考えている次第であります。
どなたか、12月16日のレコ発ライヴの模様を、
ビデオカメラに収めてくれないものかしらん…
それはとてもとても貴重なものとなるはずです。


[三村京子オフシャルウェブサイト]

[三村京子マイスペース]


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技術と信仰



 山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない。


    

        『魂の錬金術/エリック・ホッファー』より抜粋
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苦悩

   宇宙は意志の表現であり、

   意志の本質は悩みである。




                        ショペンハウエル
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映画BEST/2008 [メモランダム]

■2008年は、心身不調で、療養に専念した。
■2008年は、ゆえにインドア率が高かった。
■2008年は、ほとんど、映画を観なかった。
■2008年は、徐々に、映画が嫌いになった。
■2008年は、特集上映も映画祭も無視した。
■2008年は、自主制作映画に2本出演した。
■2008年は、詩に傾倒、映画の弱点を思考。
■2008年は、単純に金欠で、図書館に定住。
■2008年は、引っ越しを経験、沢山捨てた。
■2008年は、言い換えれば存在しなかった。

 順位がつけられる程、本数を鑑賞できなかったので、印象に残った作品を《新作》と《旧作》に分けて、「鑑賞した順番通り」にかかげてみることにした。
 やはりこれはあまり役に立つものではない。あまりにも観逃している作品が多すぎる。こんなリストではもはや「映画狂」とは言えないだろう。それでいいのだ。生活者であることを放棄した「シネフィル」が眼に入るだけで痛かったのも2008年の重要な出来事であった。「シネフィルという人種は、いったい何を競いあっているんでしょうか?」と以前までの自分自身への自戒も込めて、このように記述しておく。
 正直、現在の映画量産体制にはついていけないし、ついていく気もない。自宅でゆっくりと、シネフィル・イマジカでも観ているほうがまともな気がする。
 ある一作の衝撃に出会いたいという気持ちは理解できるが、その感動の持続化、そして血肉化はそんなに易しいことではないはずだ。強いて言えば、現在化とでも表現すべきなのでしょうか、いま、その映画作品を観て、「考える」ということの「声」が届いてこなかったのは、とても残念なことだった。
 ただ私の心身不調が問題だったのでしょうか? ひとつのある作品を鑑賞して、その作品について、せめて数週間は思索を続ける、という態度を持つことが私の理想であり、多くの人々にもその姿勢を求めたい。肉体的興奮でも知的興奮でもなんでもいい。他人の意見に惑わされずに、純粋にあなたの想いを語ってくれないか?

《新作》

ミスター・ロンリー(監督/ハーモニー・コリン)
人のセックスを笑うな(監督/井口奈巳)
ブレス(監督/キム・ギドク)
接吻(監督/万田邦敏)
PASSION(監督/濱口竜介)
妄想少女オタク系(監督/堀禎一)
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(監督/P・T・アンダーソン)
TOCHKA(監督/松村浩行)
ぐるりのこと。(監督/橋口亮輔)
レッド・バルーン(監督/ホウ・シャオシェン)
誰でもかまわない(監督/ジャック・ドワイヨン)
ダージリン急行(監督/ウェス・アンダーソン)
トウキョウソナタ(監督/黒沢清)
アキレスと亀(監督/北野武)
岡山の娘(監督/福間健二)
ジャン・ブリカールの道程(監督/ストローブ=ユイレ)

[ひとことmemo]

「TOCHKA」の出来にいちばん驚いた。グランプリ。
「ぐるりのこと。」がバランスでは群を抜いていた。
「レッド・バルーン」にいちばん切実に感動したかも。
「トウキョウソナタ」よりは、「接吻」を評価したい。
「トウキョウソナタ」は、お笑い映画としてなら一等賞。
「アキレスと亀」に、いちばん泣かされたのは間違いない。
「ジャン・ブリカールの道程」の画面にいちばん陶酔した。
「ブレス」はあざとさが全面に出過ぎて、次回作に期待。
「ミスター・ロンリー」は、やっぱり切なく哀しいよ。
「PASSION」は学生映画としてはとにかく見事だった。
「誰でもかまわない」の女優の佇まいが良かった。
「ダージリン急行」は、瞬間的な高揚感ではピカイチ。

《旧作》

北の橋(監督/ジャック・リヴェット)
不完全なふたり(監督/諏訪敦彦)
稲妻(監督/成瀬巳喜男) 
狂気の愛(監督/ジャック・リヴェット)
骨(監督/ペドロ・コスタ)
血(監督/ペドロ・コスタ)
ちえみちゃんとこっくんぱっちょ(監督/横浜聡子)
CLEAN(監督/オリヴィエ・アサイヤス)
ションベン・ライダー(監督/相米慎二)
パラダイスの夕暮れ(監督/アキ・カウリスマキ)
不安と魂(監督/R・W・ファスビンダー)
悪の神々(監督/R・W・ファスビンダー)
ギターはもう聞こえない(監督/フィリップ・ガレル)
DIG!(監督/オンディ・ティモナー)
河(監督/ジャン・ルノワール)
小さな悪の華(監督/ジョエル・セリア)
台風クラブ(監督/相米慎二)
恋人たちは濡れた(監督/神代辰巳)
コラテラル(監督/マイケル・マン)
どん底(監督/ジャン・ルノワール)
罪の天使たち(監督/ロベール・ブレッソン)
石の微笑(監督/クロード・シャブロル)
夢の島少女(監督/佐々木昭一郎)
インディア・ソング(監督/マルグリット・デュラス)
13回新月のある年に(監督/R・W・ファスビンダー)
ピクニック(監督/ジャン・ルノワール)
風が吹くまま(監督/アバッス・キアロスタミ)

[ひとことmemo]

「石の微笑」のローラ・スメットに惚れた惚れた惚れた。
「CLEAN」の現代的な映画としての力を信じ続けたい。
「稲妻」の空間の使い方に感心、そして稲妻のタイミング。
「夢の島少女」という作品の、あの貴重さはなんだろうか。
「ちえみちゃんとこっくんぱっちょ」に度肝を抜かれる。
「どん底」の全編に渡っての台詞にこそ完璧さを感じた。
「ピクニック」のブランコシーンは奇跡としか思えない。

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映画鑑賞録/2008年7月〜12月

■…映画館
□…VIDEO、DVD、TVなど

【文月】

□台風クラブ(監督/相米慎二)@DVD
□少女娼婦 けものみち(監督/神代辰巳)@DVD
□濡れた週末(監督/根岸吉太郎)@DVD
□快楽学園 禁じられた遊び(監督/神代辰巳)@DVD
■狂気の海(監督/高橋洋)@ユーロスペース
■ナショナルアンセム(監督/西尾孔志)@ユーロスペース
□恋人たちは濡れた(監督/神代辰巳)@DVD
□四畳半襖の裏張り・しのび肌(監督/神代辰巳)@DVD
□コラテラル(監督/マイケル・マン)@DVD
□マグマの如く(監督/亀井亨)@DVD
■TOCHKA(監督/松村浩行)@ユーロスペース

【葉月】

■ 白い馬(監督/アルベール・ラモリス)@シネスイッチ銀座
■ 赤い風船(監督/アルベール・ラモリス)@シネスイッチ銀座
■ぐるりのこと。(監督/橋口亮輔)@新宿武蔵野館
□ヴィレッジ(監督/M・ナイト・シャマラン)@DVD
□世界はときどき美しい(監督/御法川修)@DVD
□どん底(監督/ジャン・ルノワール)@DVD
■レディ・アサシン(監督/オリヴィエ・アサイヤス)@バウスシアター
□マンハッタン無宿(監督/ドン・シーゲル)@DVD
□マーゴット・ウェディング(監督/ノア・バームバック)@DVD

【長月】

■ホウ・シャオシェンのレッドバルーン(監督/シャオシェン)@ユーロスペース
□マリッジリング(監督/七里圭)@DVD
■誰でもかまわない(監督/ジャック・ドワイヨン)@朝日ホール
■バルタザールどこへ行く(監督/ロベール・ブレッソン)@フィルムセンター
■罪の天使たち(監督/ロベール・ブレッソン)@朝日ホール
□石の微笑(監督/クロード・シャブロル)@DVD
□ダージリン急行(監督/ウェス・アンダーソン)@DVD

【神無月】

■トウキョウソナタ(監督/黒沢清)@MOVIXさいたま
□われめ(監督/堀偵一)@DVD
□イノセント・キス(監督/吉行由実)@DVD
□ふたまた(監督/坂本礼)@DVD
■アキレスと亀(監督/北野武)@テアトル新宿

【霜月】

□復讐 運命の訪問者(監督/黒沢清)@VIDEO
□復讐 消えない傷痕(監督/黒沢清)@VIDEO
□夢の島少女(監督/佐々木昭一郎)@VIDED
□インディア・ソング(監督/マルグリット・デュラス)@VIDED
□13回新月のある年に(監督/R・W・ファスビンダー)@DVD
■急にたどりついてしまう(監督/福間健二)@ポレポレ東中野
■青春伝説序論(監督/福間健二)@ポレポレ東中野
■悶絶本番 ぶちこむ(監督/サトウトシキ)@ポレポレ東中野
■女学生ゲリラ(監督/足立正生)@ポレポレ東中野

【師走】

■岡山の娘(監督/福間健二)@ポレポレ東中野
■ピクニック(監督/ジャン・ルノワール)@メディアセブン
■ヨーロッパ2005年、10月27日(監督/ストローブ=ユイレ)@アテネ・フランセ
■アルテミスの膝(監督/ストローブ=ユイレ)@アテネ・フランセ
■ジャン・ブリカールの道程(監督/ストローブ=ユイレ)@アテネ・フランセ
□風が吹くまま(監督/アバッス・キアロスタミ)

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連詩大興行
[連詩大興行]
現在、第一巻目の「身頃の巻」がお読みいただけます。

自 2007年7月16日
至 2008年8月11日


[御連衆]
★阿部嘉昭(詩集『昨日知った、あらゆる声で』)
★久谷 雉(詩集『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』)
★黒瀬珂瀾(歌集『黒耀宮』)
★小池昌代(詩集『ババ、バサラ、サラバ』)
★杉本真維子(詩集『袖口の動物』)
★松岡美希(立教大学・文学部3年)
★松本秀文(詩集『白紙の街の歌』)
★三村京子(アルバム『東京では少女歌手なんて』)
★明道聡子(編集者)
★森川雅美(詩集『山越』)
★湯川紅実(詩誌『あんど』同人)
★依田冬派(元書店員)

2008年10月12日から、第二巻目がスタートしています。
久谷雉さんに代わって、詩人・小川三郎さんが加わっています。

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連詩 つづきます

連詩 「つづきます」

小山伸二
依田冬派
藤井和正


改行する
大腿部は第二の心臓、
といって
谷間の話をするように
言葉の像につまづく夜
インドの宝石商の瞳になって
そのことを問題にしたい
旭通り
有象無象を引き連れて                     [O]


跛でも
散文からすばやく身を抜き、
虚空の
吊り橋をわたり
めずらしい形の喉仏も通過して
落ちるあめ玉になると、
河口付近で
うごめくものが気にかかる                   [Y]  


剥がれ落ちたことばたちを踏みながら
なだらかな坂道をのぼる
寺町 六尺を身の圏として
濡れたままの砕かれない骨たちが
飛ぼうとしてからからと音をたてた
拳ほどの水につまずきながら
濃藍色の闇を歩いていこう
生き残ったものだけが 死につづける              [F]


リズムが大切、って前置きをしました
その指にさわりたかったから
ほんものの口語にふれる旅
喫茶「パナマの農園」に逃げ込んで
昼間のビールはオランダ生まれ
泡だよね、きみもぼくも
大航海時代からずいぶん時間がたった              [O]


後悔はしていません
でも 耳栓はしています
見える声は
遮断して
見えないあなたの
ほんとうの声を聴くために
(ときどき白いタイルのように 静かな瞬間がありますね)    [Y]


十一月 じぶんでいいな これ
閉じていたぼくに ことばが落ちてきた
血だまりのような終電の中で
あなたの「あ」
あなたの「な」
あなたの「た」
そんなものを 叫ぶ
一日を指先でなぞりながら
まだ行き先を決めかねていた
ナイフのような指先がほしい                  [F]


だれもが男になりたがっている
変節の時代で
断言と排除だけを言いおいて
駅に消えて行った奴らを
決して許しはしない十一月もあって
それにしても、
詩は無力なのか
その問いをいまは断崖に立て掛けてください           [O] 


飛び立った鳥と
ただ気絶しただけの鳥が
似たように 飛翔
躯を折り曲げた人々が
さらに躯を折り曲げて
「沈黙の暗喩だ」と口を揃える
正午の庭で
もうすでに彼らは別の
冬のピクニックを始めている                  [Y]


飛翔する鳥たち
その瞳から海が落ちてくる
闇にしずむ白い雨たちの
許されず越える島々

あれが大麻山 そのとなりが象頭山
それから向こうはもう西だ
まだ火照るおんなの骨が
川を渡っていく
生まれないために 
一度だけ生まれた                       [F]

10
終わりがやってくるまで
つづく列島の西に向かっている
小さな箱のなかで失われた
ことばを集める作業は
まだつづいて
陰陽の島々をたばねる
響きをこそ、もとめて

また雨が降ってきました                    [O]

11
円い海は 流失して
ここに残された四角い海を
いま 永遠化するための
−−−−−五線譜、そこからきみは
青色のガラス 掻き集めて

(巨きな塔を築いたが、深海魚の巣となった)

名前は知らない
泳ぎつづけているきみの
残像によって
朝に 言葉は 浮上するぼくたち                [Y]

12
空に雨が突き刺さる
雲に波が寄せている
森に海が流れ始める
風にきみをのせて、
と箱に書いていく あさっての朝
死んだ動物の閉じない目が
見たことのない色のように
ぼくを見つめる もっと殺して、と
それもことばさ もう行こうか                 [F]


自 2008年11月9日
至 2008年12月3日

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映画鑑賞録/水無月

■…映画館
□…VIDEO、DVD、TVなど


□ションベン・ライダー<1983> (監督/相米慎二)@DVD
□妄想少女オタク系<2007> (監督/堀禎一)@DVD
■ゼア・ウィル・ビー・ブラッド<2007> (監督/P・T・アンダーソン)@アミューズCQN
□ゴダールのマリア<1984> (監督/J=L・ゴダール)@DVD
□メイド・イン・USA<1966> (監督/J=L・ゴダール)@DVD
□ピーター・グリーナウェイ 初期作品 1(監督/ピーター・グリーナウェイ)@DVD
□白と黒の恋人たち<2001> (監督/フィリップ・ガレル)@DVD
□パラダイスの夕暮れ<1986> (監督/アキ・カウリスマキ)@DVD
□トータル・バラライカ・ショー<1993> (監督/アキ・カウリスマキ)@DVD
□マッチ工場の少女<1990> (監督/アキ・カウリスマキ)@DVD
■不安と魂<1974> (監督/R・W・ファスビンダー)@ドイツ文化会館ホール
■デスペア<1978> (監督/R・W・ファスビンダー)@ドイツ文化会館ホール
■シナのルーレット<1976> (監督/R・W・ファスビンダー)@ドイツ文化会館ホール
■悪の神々<1969> (監督/R・W・ファスビンダー)@アテネ・フランセ
■何故R氏は発作的に人を殺したか?<1970> (監督/R・W・ファスビンダー)@アテネ・フランセ
□ギターはもう聞こえない<1991> (監督/フィリップ・ガレル)@DVD
□DIG!<2004> (監督/オンディ・ティモナー)@DVD
■四季を売る男<1 971> (監督/R・W・ファスビンダー)@アテネ・フランセ
■少しの愛だけでも<1976> (監督/R・W・ファスビンダー)@アテネ・フランセ
■悪魔のやから<1976> (監督/R・W・ファスビンダー)@アテネ・フランセ
□河<1951> (監督/ジャン・ルノワール)@DVD
□雪に願うこと<2005> (監督/根岸吉太郎)@DVD
□小さな悪の華<1970> (監督/ジョエル・セリア)@DVD

【キャスト】

『ションベン・ライダー』の河合美智子の運動神経(男の子になりきる女の子の役)……『ションベン・ライダー』の藤達也の寛容さ(男性としての色気が最高潮の頃と言えよう)……『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のポール・ダノの健闘(「リトル・ミス・サンシャイン」で強い印象を残した彼は、エドワード・ノートンの系譜と言えよう)……『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエル・デイ・ルイスの怪演(言わずもがな)……『白と黒の恋人たち(原題:残酷な無邪気さ/Sauvage innocence)』のメディ・ベラ・カセムの瞳(彼の透徹した眼差しは、ここ数十年の<映画の視線>における奇跡! 俳優ではなく、フランスの新進作家である)、『白と黒の恋人たち』のミッシェル・シュボールの存在感(「小さな兵隊」の頃からすでに渋かったけれど)……『パラダイスの夕暮れ』のマッティン・ペロンパーとカティ・オウティネンの阿吽の呼吸(言わずもがな)、『不安と魂』のブリギッテ・ミラの執念(「シナのルーレット」でも強烈。画面の中にいるだけで凄い)……『不安と魂』のエル・ヘディー・ベン・サレムの誠実さ(このような人物像に遭遇するとしゃんとさせられる)、『DIG!(音楽ドキュメンタリー映画)』のアントン・ニューコムの狂気!(もう一度叫ぼう、アントン・ニューコム! 彼の音楽性は天才的だ。しかし不器用ゆえに人生は破滅的)……『雪に願うこと』の山本浩司のおとぼけ(は味があってなかなかいいものだ)……『小さな悪の華』のジャンヌ・グーピルの残酷さ(演技を超えて、存在が悪に浸食されているかのようだ)……映画の魅力の八割は、キャストの存在感に懸かっている……「演技をする役者」を人間扱いする必要などない……マネキンと呼んで、マネキンを愛すればいいのだ……やはり個人的には真の人間を映画の中に発見したいのだけれども……ほとんどいない……映画監督と役者が「人間」を創り出さないために……出せないために……一部の映画作家が人間を連れてくるのを待つ他ない。

【スタッフ】

『ションベン・ライダー』の撮影監督/田村正毅の霊感(やはりただ者ではない。田んぼでの銃撃シーンと最後の室内での銃撃シーンとその後の流れが堪らない)……『白と黒の恋人たち』の撮影監督/ラウル・クタールの呼吸(とガレルの演出の呼吸が重なったときの凝縮いったいあれはなんだ! そして編集による切断あれはなんだ! その所為で何度観ても飽きない)……アキ・カウリスマキ監督作品はいつも「美術」が完璧だと思う。最小限の美学……ファスビンダー監督作品におけるミヒャエル・バルハウスの巨匠的なキャメラワークより、ディートリッヒ・ローマンの気障なキャメラワークの方が個人的には好みだ。バルハウスのドリーショットはあれはほとんど執着の世界だ……『ギターはもう聞こえない』の撮影監督/キャロリーヌ・シャンプティエの視線(はとても穏やかだなと感じる。ラウルの攻めと比べて、やわらかい待機がある。風景を撮らせるならキャロリーヌという選択だ。そこにウィリアム・ルプシャンスキーとジャン・イヴ・エスコフィエとジスラン・クロケという三人のキャメラマンを加えれば、個人的に好きな映画の運動はほぼ語り尽くされる)……映画作家以上に、撮影監督への期待を抱きながら作品を鑑賞することに至福がある。

【作品】

『ションベン・ライダー』は(長回しも含めての)破天荒さ、子供の生意気さ(大人を舐めてる所)がやはり宝物である……『妄想少女オタク系』は腐女子/BL系の青春ラブコメだけど、これがとことんさわやか、なんと適確な演出! 深夜ドラマ四話を劇場公開後にソフト化したということだけど、ここには完全に映画のリズムがある。ピンク映画出身の堀禎一監督はあなどれない存在だ……ピーター・グリーナウェイ監督の『初期短編作品集(1)』は、野心に溢れた秀作揃いで驚愕に値する。「ア・ウォーク・スルー・H」はとりわけ完成度が高く、映画という枠から絵画/文学/詩への横断が見受けられ、優れた芸術性がここに集結している。 「インターヴァルズ」「ウィンドウズ」の試みも興味深く、その身軽さに嫉妬する。Hで始まる単語を次々と並べる「セサミ・ストリート」の語学学習のパロディ的な「H・イズ・フォー・ハウス」が個人的にいちばんツボだった。「H・イズ・フォー・ハウス」というタイトルを借用して何か書きたいと思ってる……『パラダイスの夕暮れ』はアキ・カウリスマキ監督のスタイルが完成される一歩手前といった印象で、ゆえに彼のその他の作品以上に愛着を持って接することが義務づけられる。こなれて洗練されてゆく前のこの粗さこそが<映画の瞬間>なのだと叫ぼう……かっちりしたファスビンダー映画としての『不安と魂』を評価しつつ、荒削りな『悪の神々』を個人的にはどこまでも擁護したいと感じた次第だ。『悪の神々』は数々のファスビンダー映画の中でも、瞬間的にグッと来るものがいちばん散りばめられていた。残念ながらウトウトしてしまったけど、ウトウトしつつ大感動する映画というものが世の中には存在します。何度でも観直したい。ファスビンダー映画の最高傑作『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』を再見するつもりが見事に観逃す。結局ファスビンダー映画とは何かと問えば、それは散見されるあの高笑い(コーショー)が全てであるといって過言ではない……『ギターはもう聞こえない』は、恋愛において、いつも未練タラタラになってしまう男のための最高の一本である。男対男のカフェでの会話のシークェンスが泣き所。この映画、ロケーションや室内の簡素さが素晴らしい。そして、なによりも編集が冴えまくってる(フィリップ・ガレルの編集の感受性がいちばん肌に合う。どんな映画監督、編集者よりも! 飛び抜けている。個人的には神様の領域だな。ゴダールよりさらに神経が行き届いている! 方向性は限りなく近いはずなんだ。でも感受性の切れ端が決定的にズレている。ゴダールの道化はそのまんまだけど、ガレルの俯瞰は物悲しい。ナルシス的、悲痛。最後は頭ではなく、心を使っているんだろうな、きっと。好きな映画監督NO,1を選ぼうとすると、ロベール・ブレッソンとフィリップ・ガレルで葛藤することになる。この二名に追随する者はいない。彼らは独走である。彼らが独創である。僅かの差でガレルに軍配かなという気がする。要は倹約を貫徹するかしないかで、しない方を、最終的に抒情にかける方を選択したい。真の知力とは技術ではなく、愛としか考えられないゆえに)。基本的にあまり気持ちよく画面を繋がないことへの、信頼。事象を見せ過ぎない。時々、黒みを入れて、エピソードを印象づける。あるいは余韻を操作する。とにかく編集が内容/意味との必然性によって、断ち切られ、反復され、画面連鎖の中にも登場人物の感情の輪郭が精確に刻み込まれる。表情を介さなくても、表情よりも、一枚の持続しないショットの方がずっと有効的なのだ、映像の細部に宿る魂をけっして見逃さない、それを利用しない。注意深く見守る視線だけが、感動的な映画を生む……音楽ドキュメンタリー映画として考えれば、『DIG!』はかなりの極上品である。これを見逃してる奴は相当やばいぞ。ロックが好きな奴は、黙ってみるべし、相当やばいぞ。尻に火がつくぞ。迷ってなかなか手に取らなかったことを激しく後悔する羽目になるさ、誰だって。ドキュメンタリーの映像表現としては特筆すべきものはないけれど(MTV的な雰囲気だけど)、とにかく内容、アントン・ニューコムというキャラクターの奇跡に心揺さぶられてしまえ、はっきり言って痛々しい程の存在だけど、その音楽的才能はモノホンだ。本質を携えた身体は、ひたすらに沈んでしまえばいい。ブライアン・ジョーンズタウン・マサカーのライブが観たかった……根岸吉太郎監督は現在の日本映画界の中で、いちばん真っすぐ球を放り投げる人物、正攻法の監督かと思われる。鞭を入れる手つきに、まったくブレがない。あまりにお行儀が良過ぎることに難癖をつけたくなるほどの、直球の映画群である。しかしながら、直球でありつつクオリティーを保つというのは実に大変な作業である。ほとんどの映画はこれに失敗している。統計に頼りすぎるからだ。ウェルメイドに仕上げるコツを体得している人間は、それほど多くはない。『サイドカーに犬』<2007>の捌き方に目を見張って、その題材の胡散臭さからずっと遠ざけていた『雪に願うこと』を観る決心がついた。『雪に願うこと』は時代遅れの退屈な作品だけど、多くの商業映画はぜひともこの作品をお手本にして頂きたい。プログラムピクチャーを量産してきた経験が捻くれずに花開いているというか、(年齢的に)妙な諦観があるというか、とにかく設計へのこだわりがあって、最上級のバランス感覚がある。これぞプロの仕事だ! 職業監督的な態度における勝利がある。個人的にはまったく評価しないけれど、とても好きだ。突き抜ける必要なんてない。妥協する必要なんてない。さらりと完璧な映画を作る、創り続けるという映画作家(集団)がいても良いと思う……というよりそういう映画作家だけで充分だと思う……『小さな悪の華』は伝説の映画ではあるけれど、どうも正当な評価がなされていないようだ。内容のスキャンダラスさ、苛烈さだけが取沙汰されるのは仕方がないけれど、自転車の使い方と少女の佇まいは、映画的に一級品だと感じた。少女対社会(宗教)という構図以上に刺戟的なのは、少女対少女の支配−服従関係の物語、その変容である。ある種の囲いが、少女期特有のグロテスクさを深淵から引き出し、真に官能的な行動を促す、という人間の根源的なメカニズム、それに対するキャメラワークの素直さに、とにかく好感が持てるのだ。寓話として記憶に残る一本。同じ実話を扱った『乙女の祈り』よりも断然よい。


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映画鑑賞録/卯月・五月


■…映画館
□…VIDEO、DVD、TVなど

[卯月]

■非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎<2007> (監督/ジェシカ・ユー)@シネマライズ
■接吻<2007> (監督/万田邦敏)@ユーロスペース
□レディー・イン・ザ・ウォーター<2006>(監督/M・ナイト・シャマラン)@DVD

[五月]

■パラノイドパーク<2007> (監督/ガス・ヴァン・サント)@シネセゾン渋谷
□ブリッジ<2006> (監督/エリック・スティール)@DVD
■ブレス<2007> (監督/キム・ギドク)@シネマート六本木
□helpless<1996> (監督/青山真治)@私物VIDEO
■EUREKA<2000> (監督/青山真治)@ポレポレ東中野
■ちえみちゃんとこっくんぱっちょ<2005> (監督/横浜聡子)@池袋シネマ・ロサ
■さよなら、ジョージアダムスキー<2007> (監督/児玉和士)@池袋シネマ・ロサ
■CLEAN<2004> (監督/オリヴィエ・アサイヤス)@吉祥寺バウスシアター
■おちょんちゃんの愛と冒険と革命<2004> (監督/西尾孔志)@池袋シネマ・ロサ
■グレートブリテン<2007> (監督/石井裕也)@池袋シネマ・ロサ
■borisico<2007> (監督/板倉善之)@池袋シネマ・ロサ
■マターナブルースカイ<2007> (監督/羽野鴨)@池袋シネマ・ロサ
□めがね<2007> (監督/荻上直子)@DVD
□サウンド・オブ・ミュージック<1965> (監督/ロバート・ワイズ)@DVD
□女と男のいる舗道<1962> (監督/ジャン=リュック・ゴダール)@私物DVD
■爆撃機の眼<2004> (監督/八坂敏行)@吉祥寺バウスシアター
■emerger<2008> (監督/佐藤有記)@吉祥寺バウスシアター
□少女ムシェット<1967> (監督/ロベール・ブレッソン)@私物DVD
■彼方からの手紙<2008> (監督/瀬田なつき)@ユーロスペース
■PASSION<2008> (監督/濱口竜介)@ユーロスペース
□たぶん悪魔が<1977> (監督/ロベール・ブレッソン)@私物DVD

 ★『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』は、孤高のアウトサイダーアーティスト、ヘンリー・ダーガーの生涯と創作の謎に迫るドキュメンタリー映画。周辺人物たちの証言と、彼が残した15000ページを超える巨編小説の中にある挿絵をアニメーション化した映像を軸に進行する。ダコタ・ファニングがナレーションを務めている。ドキュメンタリーの体裁としてはよくある類いのもので、彼の軌跡、とりわけその孤独感に肩入れしない限り、退屈を感じて眠気に誘われてしまうタイプの作品かも知れない。一度、その突飛なイマジネーションの世界に引き込まれると、あとはひたすら人間の不思議を思いながら、最後まで駆け抜けるしかないだろう。親類も友人もなく、病院の雑役夫として働き、教会のミサに通う以外は部屋に閉じこもり、妄想に耽り続ける男・ヘンリーが描いた「非現実の王国」では、<子どもたちが奴隷となり虐待されている。そこで、「ヴィヴィアン・ガールズ」と呼ばれる7人の少女が自由を勝ち取るために、反逆の狼煙をあげる>という一種の叙情詩が形成されている。そこにある挿絵の不気味さ(あるいは味わい深さ)は、新聞や雑誌の記事、写真や漫画などの切り抜きをコラージュして、過剰なまでにコピー&ペーストした独特な技法によるものだろう(1909年当時に誰の力も借りずに、この技法に着手していたのは驚きである)。少女たちの下半身には、なぜか必ず男性器がぶらさがっている。彼の名字が「ダーガー」であるのか「ダージャー」と発音されるべきなのかを巡るところは、ちょっと息抜きとして唯一、微笑ましくなるシーンだ。1973年、81歳の誕生日の翌日にひっそりと息を引き取ったこの老人は、とにかく最後まで「どこにでもいる、ちょっと変わった人」と周囲から見られていたようで、彼の作品群がいまこうして我々の元に届いていることは、とてつもない奇蹟と言えるだろう。彼の妄想世界から掴み取るべきものは多々ある気がする。第二、第三のヘンリー・ダーガーが、どこかの地下室でせっせと「物語」を描き続けていることを想像すると、なんだか奇妙な気分になってくる。「個人的な物語」を見逃し続ける社会が理想的なフィードバックを個にもたらすとは考えられない、よって個人から集団へのさらなる還元も飽和状態となる他ない。アウトサイダーアーティストを成員として受け入れられない社会は、ただただ未熟である。

 ★『接吻』という作品は、語り続けることでしか語れない、安易な形容を許さない映画である。演出がどこまでも冴え渡っていて、役者陣の演技も構築された物語の深部/主題の核までよく行き届いていて、少しばかり欠陥がみられる脚本も全体を通してみれば、特に気にならない。ストーリーテリングよりも、ひとつひとつのアクションの細部に語りの本質を置いている。久しぶりに力強い画面の連鎖を見せられたなという感慨が起こった。万田邦敏監督は、頭ガチガチで映画を作るタイプだ。その痕跡が如実にキャメラワークにも現れてしまうので、乗れない観客はとことん乗れないと思う。周りの何人かはそこで躓いていた。流麗さが欠けている!がゆえに、映像の倫理ががっちりと補強されていると個人的には思ったりするのだが、もっとブレーキでいう所の遊びがあっても良いのかも知れない。そうすれば感嘆する観客は増えるだろう。『UNLOVED』の緊密さに比べたら、本作には若干の緩みがあって、それがサスペンス性を盛り上げている。心地よいリズムの切断は、もはや刺激でしかなく、ショットの意味(順序/距離/情報量etc.)をあれこれと詮索しだして、「もう止まらない!」という状況に自然と持っていかれる。それもこれも一筋縄ではいかない登場人物が慎重に取り扱われているからであり、殺人者/殺人者に同調した女/二人の間に挟まれた弁護士の一挙手一投足に、たえず未知が含まれているからである。ここで剥き出しにされているものを、無理に形容することはできない。共感することも反撥することもできるけれど、その瞬間にすぐに目撃している自分の存在が試される。物語に入り込むことも外側から俯瞰することも許されぬ宙ぶらりの状態を保ち続けることを強制させられる。そのことを快感と考える他に、この作品を最後まで観通すことなどできるはずもない。芯が通っている不器用な映画とでも言おうか、興奮しすぎて鼻血が出そうになりましたと告白しておきたい。『犬猫』<2004>でスゴイ!と思わされた映画女優としての小池栄子が、とにかく素晴らしくて、ずっと心の中で拍手をしていた。考えてみればバラエティ番組おける彼女の動作にも、どことなく冷めた姿勢というのが貫かれていて、母性にあふれた身体が孤独に投げ出されている姿というものは、ただ屹立しているだけで、これほどまでに恐ろしい雰囲気を醸し出すものなのかと、単純な驚きを隠すことができない。あの豊川悦司とこれほど張り合える女優が、果していまどれくらいいるのか…。

 ★『レディー・イン・ザ・ウォーター』を観ながら思い浮かべていたのは、意外にもラーメンズ・小林賢太郎のコント作成術だった。まずはじめに「方程式」があって、それから手持ちのカードを無駄なく並べてゆく手つきが見えるのだ。脱線をほとんど許さない、すべてをコントロールしている。いま現在、M・ナイト・シャマランほど、計算高い映画監督は他に見当たらない。インド人としての数学的叡智を存分に発揮して、極上のエンタテイメント作品を仕上げる強者だ。たとえ題材がつまらなくても、その構造が完璧であれば、映画としての成功率は高い(感動率はまた別の問題だけど)。観客の心を掴む肝として、そしてまたこれは安全策として、スピリチュアルな要素をふんだんに盛り込むことも決して忘れない。シャマラン監督作品は、ただただ憎い。ディズニーや宮崎駿の大衆性はとにかく酷いだけだが、彼の知性が織りなすスピリチュアル・ファンタジー映画は、そのB級感も含めて、憎いほど楽しい。なんというか真面目におバカをやっていて、こってこてのハリウッド映画術を模倣しつつ、そこにわざと脱臼を添えて、自らをも批判しているという歪んだ諧謔精神。そのくせ愛なんてものを本気で信じていそうだから、尚更に笑える。力みつつ力まない。映画作家として正しい態度だと思う。個人的にはブライアン・デ・パルマやクエンティン・タランティーノと同等の感覚で観ている。本作は、「水の精」と「ストーリー」をめぐるお伽噺となっている。子供と大人が別の角度から楽しめる映画だと思う。撮影監督がクリストファー・ドイルだったということには後から気づいた。

 ★『パラノイドパーク』は、ここ最近のガス・ヴァン・サント監督が撮った作品群、『ジェリー』<2002>『エレファント』<2003>『ラストデイズ』<2005>に見られる散文的手法を受け継いでいる。テーマには、「死」が共通項としてある。日常・非日常の断片を細やかに切り取り、状況を淡々と見せる。心理劇よりも身体の運動、映像の抒情性に比重を置いていて、登場人物たちの言動や行動を否定も肯定もせずに、ただ見守るというスタイルを貫いている。その狙いは、確固たるメッセージを作品の中に含ませないことにある。観客に能動的な鑑賞を強いると共に、ひたすら癒しを与えるための最良の選択として、このような抽象的な表現を採用している。観客はただ、音楽を浴びている瞬間と同じように快感に身を浸せばいい。余韻として残るもの、あとから迫り上がってくる震えがあったのならば、そこで始めて提起された真摯に問題と向き合えばいいのであって、余計な勘繰りは不要である。考える前に感じること、あるいは関わりあう前に立ち会うこと。この重要さをガス・ヴァン・サント監督はとてもよく理解しているのだ。胡散臭い、嘘くさい、安易なヒューマニズムに満ちていると考える向きもあるだろうけれど、眼差しの可能性に懸けた、真にやさしい映画であることは間違いない。『ジェリー』以外は、スタンダード(正方形の画面)で切り取られていて、その小窓の視線は、物語を知る以上に、まず人物を見る装置として、とにかく有効的なのだ。前三作を担当したキャメラマン、ハリス・サヴィデスから、本作ではウォン・カーワァイ監督作品でおなじみのクリストファー・ドイルがキャメラマンとして選ばれ、スケボー少年が主人公ということもあって、全体的にアグレッシブな、悪く言えばあざとさ満載の画面作りになっている。ここは好みの問題だろう。個人的には、ハリス・サヴィデスのキャメラワークの方がしっくりくる。ガス・ヴァン・サントとクリストファー・ドイルの企みがタッグを組んでしまうと、どんなに抑制が利いていても、やはりスタイル先行の映像として映るようだ。そこにチルアウト系の音楽が拍車をかけて、もうお腹いっぱいといった感じになる。残念ながら、前三作から何かが更新されているようには思えなかった。一度、この手法から離れた方が無難ではないか、と要らぬ心配をしてしまう程だ。しかし、十代の若者にとってはかけがえのない作品であるとは感じる。

 ★『ブリッジ』は、飛び降り自殺する人々を映したドキュメンタリー映画だ。舞台は、自殺の名所として有名なゴールデンゲートブリッジ。その橋のたもとに約1年間、キャメラを据えたとのこと。そのあいだに24人が66メートルの高さから海に飛び込んだと、この映画は報告する。なんのためにこのような映像が撮られたのか、倫理的な問題を挟むと、確かにこの作品自体の存在の矛盾を孕むことになるが、最後までしっかり観通せば、制作者がいかに真摯な態度で、この悲惨な出来事の記録・映像化に臨んだかが理解できるだろう。自殺者の遺族や友人たちの証言から立ち上がってくるのは、彼ら周辺の問題ばかりではなく、人間や社会が根本的に背負っている関係=コミュニケーションを持つことの複雑さがもたらす問題、「孤絶」の問題である。橋の上で自殺を食い止める光景が何度も挿入される。どんな孤絶の状態に陥っても、警告を発しない人間はいない。希望を消失した人間の理解がどんな難しくても、彼らの絶望的選択の前兆に気づくための注意を怠らないこと。自殺志願者の闇に目が向けられていない社会の未成熟さを、やんわりと告発しているようにも受け取れる作品である。奇蹟の生還者のその後などにも焦点をあて、多角的に「生と死」を見つめている。最後、両手を大きくひろげて飛翔した男の姿からは、「生きる意志」ばかりが溢れてくるように感じられたのは、ただただ皮肉なことである。人の生は、呼吸が止まる前に、かならずどこかで「終わる」とそんな気がしてならない。「終わり」から始められる<二度目の人生>というものをいまは想像することもできない。「自殺/自殺者」を考えるとは、なにを考えることになるのだろうか?

 ★『ブレス』は、キム・ギドク監督の14作目の映画である。彼独自のグロテスクな寓意性はここでも顕在。自殺未遂を繰り返す孤独な囚人と家庭内で虐げられている妻との交流とも言えぬ交流が描かれる。前述、万田邦敏監督の『接吻』との酷似をどう考えるべきか? 両作共に「くちづけ」が大切な場面でクローズアップされる。とりわけギドクは、言葉以上にその沈黙を通した本能的行為に、傷ついた魂の昇華をみる。その前段階として、囚人の面会室に奇妙な飾り付けを施し、幻想的な四季を呼び込む。そして女はミュージカルに身を委ね、男は刹那の恋に酔いしれる。その滑稽な悲喜劇を演出し、監視役として高みの見物を決め込んでいるのが監督のキム・ギドクという捩じれた構造を作り上げ、人間の獣じみた様子、その果てぬ欲望を冷徹な視線で凝視することを自らに、そして観客に強いている。映画が何事かを語るためにあるのではなく、観る者の心の振動が世界に対する認識として、ただあちこちに投げ出される。そのように言わんばかりに、画面の隅々に曖昧さや不足を意識的に招きいれている。キム・ギドクというもはや確立されつつあるジャンルは、映画のレトリックのいい所だけを見事にかっさらいながら、映画というジャンルから、ひたすらに離れようと逃れようとして、とりわけ観客の怠惰な受け身を執拗に告発しながら、懸命に独自の映像世界を切り開こうとしている。その凄まじいエネルギーに終始圧倒されっぱなしで、彼の作品を鑑賞した後には、いつも虚脱感だけが残される。

 ★『helpless』をビデオで観直して、『EUREKA』をフィルムで初体験するために劇場へ足を運ぶ。前者は五度目、後者は三度目の鑑賞になる。そこではたと気づいたのは、映像のつなぎ方、特にサウンドの扱い方が、どこまでもロックンロールだったということだ。恥ずかしい程の愚直な試みが随所に見受けられ、その部分を笑えるか笑えないかが、青山真治監督作品と向き合う瞬間の鍵となる。とにかくちょっとジャズよりの王道ロック! そのようなスタンスを理解して観てゆくと、細部の不用意な描写に文句を言いたくなる感情は自然と薄れてゆく。映画を観ているという感覚よりも、ミュージシャンのライブに立ち会っているような体感がそこにはあるのだから、リズムに乗って上下に身体を揺らして、ときどき頭でも振っていればいいのでは、と投げやりな態度を認めたくなる。物語(主旋律)に刻み込まれたメタファーや情緒にぶつかって感動するのは容易いが、荒削りなドライブ感を堪能するほうが、青山真治監督作品にはふさわしい見方なのだという気がして仕方がないのだ。もっとも『EUREKA』に関しては、完璧なショットの連続で、その持続と切断、変質のタイミングが巧みに計算されていて、ときにしっかりと眼を凝らす必要はある。音の洪水の中を力強く縦に切り込んでゆくシャープな感性を要求される。映画内に描き出される時空間は途方もなく、記号的でありながら無名であり、その風景に寄り添わなくてはならぬ観客は、存在が不透明になることも素直に受け入れなければならないだろう。安易にユートピアを求めてはならない。決定不能のままで風に運ばれてゆく他ない。終盤にかけて、臨界点とプラスアルファの到来の予感が高まり続けるのだが、得体の知れない大津波の振動を聴き分ける繊細さと背後に隠れたドラムやベースのうねりに身を任せる態度を混同してはならない。そのためにも複雑な構造と向き合う以上に、実直な部分を素直に受け止めることに「(擬似的な)始まり」を見出さなければならない。登場人物たちの苦悩への理解とはどこから生まれるものなのだろうか? 親と子、血族の問題、疑似家族の問題、出来事の質、体験の認識、トラウマの変容、世界の秩序や均衡など、大文字の主題がとにかくやかましいのであれば、映像を簡単に記号や意味に結びつけずに、ただひとりの叫びに耳を傾ければいいのだ。何度も矛盾するようだけれど、観客である「私」の中で反響する音楽がやはりそれだ。

 ★『CLEAN』には、ただただ胸打たれた。ここ最近観た映画の中ではズバ抜けて好きだなぁ。今すぐにでももう一度観直したい! 物語は単純で、ロックンローラーの妻である悪女(マギー・チャン)が、夫の死を契機に、薬漬けの毎日や息子との確執からどうにかこうにか抜け出して、夢をいったん諦めて、まっとうな職につき自立してゆく、つまり心身ともにクリーンになってゆく様を奇を衒わずに描いている。当然、二度三度の波乱が待ち受けている。彼女のもどかさしさ、女性特有の葛藤が実に細やかに映し撮られていて、脇を固める役者陣の、そしてサウンドトラックのなんと見事なこと! 義父を演じたニック・ノルティに、ひとつの人間の理想型を託している。安易な人間模様に堕しそうなところを、リズミカルな編集で大胆に切断して、必殺のパーンで流れを自然と取り戻す。その緩急つけた巧みすぎるクールな映画技法で、一度もテンションを下げずに物語を推し進めてゆく。役者陣を心から信頼し、彼/彼女らの内面性に多くを委ねた演出もピタッとハマりまくって、オリヴィエ・アサイヤス監督の底力というか真に本物の力を見た。とてつもない才能だなと思う。少年少女たちを描いた『冷たい水』<1994>がいちばん好きだったけれど、見事にそれと並んだ。舞台となる街がトロント、パリ、ロンドン、サンフランシスコなど、どんどん移り変わってゆくのも実に鮮やかで、風景論としての重層的な面白みも滲み出ていた。最後、やはりミュージシャンとしての再出発となるのだが、その場面におけるマギー・チャンの佇まいは、女として美しく、人間としてどこまでもやさしく、その絞り出されるかすれ声は、生を肯定する希望に満ちあふれていて、まさに奮闘するひとりの女の姿を、全身全霊で体現していた。「人間は過去に永遠に縛られるものではない。生まれ変わり、やり直すことができる」という願いが込められて力強い映画だった。本作でマギー・チャンは、カンヌ映画祭で最優秀女優賞に輝いている。ちなみにオリヴィエ・アサイヤス監督とマギー・チャンは、元夫婦である。

 ★『めがね』は、ヒット作『かもめ食堂』<2005>を自己模倣した、企画ありきの作品(というかコンテンツ)といったところでしょうか。『かもめ食堂』はそんな嫌いじゃなかったけれど、まったく同じことをやる必要はほとんどないと思われる。奥行きのないキャラクターづけ、予想通りの展開、想定範囲内のプラスチックな世界、舞台は沖縄(日本のどこかの孤島?)なのだけれども… なんというか海も風も樹々も妙に嘘くさくなってしまっているのは、本作がはっきりとほのぼの系(というかゆるゆる系?)を志向しているからで、その割にはディテールをがちがちに固めてしまっていて、悪い意味で無駄がなく、観客を介在するまえに、内容自身が作品の存在理由を否定してしまっているので救いようがない。「たそがれ」がうまい人が、居座ることを許されるユートピアという設定になっているけれども… そしてそこでは癒しのオリジナル体操が、大人も子供も孤独な人も分け隔てることなく結びつける。地図とか、出勤時間とか、かき氷の値段とか、アバウトであることが許容されている。これは作風というには何かが足りない、そしてある側面が過剰すぎて、もはや映画というよりは、ヒーリングミュージックと同じ効用を持つ、単なる癒しの映像かと思われる。そう考えると、『かもめ食堂』もあまり変わらない気がしてくるのだけれど、『めがね』よりは確実に抑制が利いていたというか、もっと本当に何もなくて、それが功を奏していたと思われるのだが、本作はどんな観客をも受け入れているようで、実はものすごく排他的な作品、閉塞した世界が描かれているわけで、このような映像に感動できる感受性はとてつもなく危険だったりするわけで、とりあえずこのようなまがい物に充分気をつけなければと思うのだった。と言いつつ、最後まで観ることができたのは、なんといっても市川実日子が、ただただ可愛いからに過ぎなかったりするわけで…。

 ★『爆撃機の眼』を、爆音映画祭2008のラインナップのひとつとして鑑賞。機会がありながら、幾度も見逃し続けていた作品である。秀作との噂が遠くから近くから聞こえてきていたし、ずっと注目している新進女優・河井青葉が主役の一人として出演しているとなれば、そこはおのずと期待が高まるわけで。これ、「バクオン」で観ることができて正解だったなと思う。「2人の女子高生が後戻りのできない世界に向かって疾走する異色の青春映画」と謳われている作品なのだけども、「女子高生」「青春映画」のキーワードよりも「異色」という言葉が断然勝っている観念的描写のオンパレード! 水、皮膚、網膜、苔など液体性のアイテムでかろうじて繋がってる物語の筋を追うことは容易ではなかった。正直、一度観ただけでは「そこで何が起こっているのか」を掴むことはできなかったことを告白しておこう。河井青葉の「眼」ばかりを注視してしまったからだとも言えるのだけど、かつて映画評論家の阿部嘉昭氏が「瞳の体温の低さ」というフレーズで、彼女の眼力(そして存在)を賞賛していたことを思い出す。その河井青葉が演じる女子高生・時子の眼が「とんでもない目」にあうのだ! ということはしっかりと思い出せるのだけど、もうひとりの女子高生・雫の立ち振る舞いが今イチ思い出せず、彼女たちのゲームに巻き込まれる同級生の男の子や、佐野和宏と戸田昌宏が演じた異常者たちの行動原理も今となってはあまり整理がつかない。「世界/精神」そのものがかき鳴らす不穏な音の洪水を浴びながら、破滅にむけてまっしぐらの二人の女子高生を、その孤絶と暴発を身体性も含めて漠然と眺めていたら、なんだか勝手に観てるこっち側は爽快な気分になり、そのひとつひとつの表現はちっとも快感をもたらすようなものではなく、むしろ不快を煽るものであるはずなのに、特にそこにリアルと感じる要素はなく、全体的に寓意的で、ポエティックで、分析を始め出したらそれなりの見解が生まれるということはあるだろうけれど、まずなによりも視線劇としてのグロテスクさに嬉々として、彼女たちの突飛なアクションに瞠目しつつ、爆撃機の音と共に、彼女たちの変容の様を、ヘッドフォンミュージックを聴くかの如く体内に流し込む! ただそれだけでいいような気がしてくるから不思議だ。そのような鑑賞方法も本作のひとつの正しい見方ではないかと。事実ぼくは、そのような適当な楽しみ方をしてしまったわけで、よってこれは言い訳以外の何物でもないわけだけれど…。しかしながら、河井青葉の天然性の狂気は、やはり恐ろしい。凶器の瞳。爆撃機の眼! もう一度観てみたいなとすぐに思った。そのときはもう少し脳を駆使して対峙しようと思う。貴重な映画体験だったというか、とにかく素敵なアトラクション体験だったと暴言を吐いておこう。すべてが余談だけれど、さらに蛇足を付け加えると、「水」に関して執拗な執着をみせる映画作家といえば、ツァイ・ミンリャンがすぐに思い浮かぶ。彼の作品『西瓜』<2005>と重なりあう部分が少しはあったかも知れない、とこれまた適当なことを言っておこう。女子高生ふたりの関係や行為が、その類似性から『小さな悪の華』<1970>とも多少オーバーラップしたのだけれど、あの作品のようにシンプルな設定を与えて、そこにある欲求・衝動の描き方も分かりやすくしても殊更に問題は生じなかったのではないかと少し思った。なにからなにまで非日常的で記号的だったので、本当は少し退屈もした。出演が河井青葉ではなかったら、ずいぶんと印象も違っただろう。

 ★『彼方からの手紙』と『PASSION』は共に、東京藝術大学大学院映像研究科・第二期生終了制作(GEIDAI#2)としての作品。両作共通して言えることは、学生映画ならではの「やりたいことがやり尽くされている」という印象が突き抜けていることだろう。その度胸と勇気に感服する。それぞれに大きな成功と手痛い失敗が内在している。自主制作・学生映画のクオリティとしては最高峰に位置すると思う。前者はセンスの良さと独特なテンポを原動力として、物語を突き進めてゆくタイプ。後者は役者の即興的演技を最大限に引き出し、恋愛における男女の関係性の機微を細かく組み立て、観客の共感を巻き込む形式を採用している。両者共に、社会に対するセンシティブな眼差しを巧みにシナリオに定着させていて、混乱を招き入れるという要素がほとんどなかった。落ち着いて安心して観ることができた。『彼方からの手紙』は、不動産屋に勤める青年と突如彼の前に現れる少女とのロードムーヴィーもので、プロットだけを取り出せば、ありふれた映画に陥ってしまう可能性が大なのだけれど、女性監督ならではのやわらかい感受性が、その危険性をしっかりと食い止めている。言い方を換えれば、劇中の少女に監督の人間性が託されていて、女優・朝倉あきが絶妙なポジションにきちんと立っている。それと比べて、監督が描き出そうとした青年は、類型的に、言ってみれば漫画・テレビドラマ的なキャラクター造形になっていて、リアリティが薄い。行動のひとつひとつが裏目に出てしまっている。青年のおちゃらけには観客はついていけないし、残念ながら笑えない。監督がもっと男の習性を知れば、いずれその部分は回避できるだろう。そのことを差し引いても、この作品に持続する気分は、素敵なものとして残っている。ディテールの細かいところまで目を配ったことは賞賛に値するけれど、不用意に感じられる部分も多かった。せっかくの驚きの演出が、新たなシーンが加わる度に、退却せざる得ず、それは物語の更新というよりも、どちらかといえば拡散・断片化に傾いていった。ショットだけの強度でいえば、文句をつけたくなる箇所など皆無だけれど、全体的にどのシークェンスも観客におもねる態度を避けてはいないので、良い意味でどこかで心地の良い裏切りを選択するべきだったのではないか。日常と非日常の境が消滅し、夢だか現実だか分からない異空間で、少女と青年がダンスを踊り出す場面は、到底納得することはできない。最高にクレイジーで楽しくなる場面なのだけど、もっと自然にその流れに入り込むような伏線を引いておきたかったというのが本音ではないかと感じる。ジャック・リヴェット監督の『狂気の愛』<1969> における、壁に落書きをしながら壁をぶち壊してゆく破壊シーンなどが想起されるわけだけど、あの突然何かが瓦解し始めても心から頷けてしまう説得力を持たせて欲しかったというのは贅沢な希望か。ちょっとばかり恣意的な、監督の映画に対する愛の介入が、身勝手な方向に進んでしまった気がしてならない。主人公の少女の身体運動やギターを抱えた女の子の歌声が、緩和剤となって退屈を防いでくれていたけれども、渾沌から抜け出したあとの日常への帰還はとても見事だったと思ったのだけど、やはり総体的に観て、もう少し抑制を利かせて欲しかったというのが正直な気持ちだ。さもなければ、もっともっとやり過ぎてしまっても良かったのではないかと、そんことを考えたりもする。破綻があるようで実はなくて、こじんまりとした小品に収束してしまった感があり、ハートウォーミング・コメディを志向し過ぎた嫌いがあった。そうは言っても、この映画の中の少女は、とてもとても可愛らしく、愛すべき存在ではあるのです。瀬田なつき監督の作品は、もっともっと観てみたいと感じている。とてつもない作品を生み出すのではないかと期待している。
 『PASSION』は、二十代終わりの五人の男女の恋愛群像劇(注意:少し年の離れた小説家の女性が自然とそこに加わる)。といえば、興味が湧く人も多いだろう。そして映画に精通している方であれば、直ちにアルノー・デプレシャンの長編第二作『そして僕は恋をする』<1996>を思い起こすのではないだろうか。デプレシャンのこの傑作映画が参照されたことは間違いないと思う。けれどもそこに寄りかかり過ぎずに、この作品はきちんと屹立している。学生映画として考えるとその安定感は抜群で、どこにも欠陥は見当たらない。あとは好みの問題だけで、映像原理主義的に問い質せば、キャメラポジション、キャメラワークが若干甘いなと思わせる箇所がないわけではないけれど、「即興芝居」に軸を置いた試みにこそ焦点を当てるべきで、それは悉く成功しており、なによりもシナリオの完成度が高く、そこに役者陣の個性が物語を倍加するように放たれていて、監督はそれを完全に捌き切っている。むろん撮影現場よりも編集段階での修正が水準を引き上げていったと思うのだけど…。学生映画の現場には、多大なる制約や条件があり、即興芝居を納得のゆく所まで成就させるのは到底不可能なので、この手法を選択することは相当にリスキーであるということを体験として知っているので、詰めの甘さにいちゃもんをつける気は起こらない。もしプロの作品であったならば、監督はもう少し「鬼」になる必要があっただろう。それができたならば、もっともっと登場人物たちの倦怠や焦燥感、強いては悪意が剥き出しになったと思う。なぜそれが必要かと言えば、この作品がその根底に「暴力/不可抗力」を主題に置いているからだ。でも充分な程に役者たちはリアリティを背負った「顔」を発揮していた。物語が要請する「リアリティ」が演出によって寄せ集められたのではなく、役者陣の個々の生活感情/身体性がそのまま差異となって、画面上に刻印されている一種の奇跡がこの作品のすべてといっても過言ではないと思う。それだけキャスティングが絶妙で、男女の関係図が巧妙だった。それぞれのカップルを追っていっては切りがないので、ポイントだけ抑えておくと、ヒロイン・河井青葉の「瞳」の勝利! 彼女は中学校教師の役で、教壇で「暴力について」の自説を雄弁に語る。「犠牲をもって暴力を排除せよ!」という言説は決して万人に受け入れられる類いのものではない。事実、彼女は生徒たちの(素直な反応でもある)詭弁によって、自己矛盾に打ちあたって粉砕してしまう。その出来事が自身の恋愛に還元され、映画的には周囲の人間模様にまで浸透してゆく。以後、河井青葉は上の空で寂しいウサギとなって苦しみを吐露するが、潤んだ瞳以上に彼女の真意を伝えるものとはならない。それは相手の男性(岡本竜汰)も同じで、論理的な思考回路で言葉を発すれば発するほど、言葉は嘘くさくなり真実味を帯びてこない。それ以上にポーカーフェイスを決め込んだ顔がますます痛々しくなる。果ては「本音ゲーム」なんてものを考案し、関係性のドツボにはまってゆく。己の感覚に忠実な男として、渋川清彦(KEE)が入り乱れた関係の中を縦に切り込んでゆくのだが、その姿がなんとも勇ましい。いっけん土足で踏みこんでいるように見えて、実はいちばん彼が繊細であるという真実に、その独特の道化精神に、観客はひとまず安心するのではないか。彼同様にあっけらかんとした素振りをみせている占部房子の「肉体」の勝利! 全然関係ないけれど、『ママと娼婦』<1973>のベルナデッド・ラフォンを彷彿とさせる(小説家の姉もこのポジションだ。もっとひらひらしているようだったけれど)。占部房子も言葉をぞんざいに扱っている。もっと深い所に言葉を溜め込んでいる。よって身体感覚の作動に判断の比重が置かれ、それをいつも先行させている。彼女がKEEにビンタを一発喰らって覚醒するところなどは、それまで暗い主題として横たわっていた暴力が変質する瞬間で、見事なシーンだった。個人的にもっとも目を見張ったのは、岡部尚(おかべなお)という役者さんで、その存在の淡さ、輝き方は河井青葉と同質のものだけど(それ故に彼と河井青葉が結ばれないのはその近さにおいて不幸だけれど、と同時に当然なのだけれど)、もっとなにか人間とし根本的な不自由を抱えている、そのだらしのない身体がそれを体現している。調べてみれば舞台役者だそうで、空気感の放ち方が強烈だった。存在を消しつつ主張を消さない、あるいはその逆を実践していたと思うのだけど、そのさじ加減がこの人物を表象することにおいてスパークしていた。岡部尚がこの五人の中に混じっていなかったら、実はそんなにこの作品に関心を持たなかったかも知れないと思うほどだ。それくらい不可欠な存在だったと感じる。とここまで役者陣への賛美を語って、もう一度作品全体への視点に戻ってみると、やはり作品構造への注意が勝っていて、ひとつひとつのシークェンスの強度に対してはそれほどまで固執している映画というわけではなかったことに気づく。これは贅沢な注文といえるだろうけれど、冒頭のパーティーシーンなんかにしても、たとえば諏訪敦彦監督『不完全なふたり』<2005>のディナーシーンのような緊張感が欲しかったと言ってみたくなる。「本音ゲーム」は当然のことながら、ファスビンダー監督『シナのルーレット』<1976>からの着想かと思われるが、それならばもっと本家を真似て無意味に室内を歩き回ってみても良かったのではないか。そうでなければキャメラポジションを工夫するなどして…。と言いつつ、では前述した教室内で教師と生徒が繰り広げるディスカッション・シーンのあの緊密さはいったいなんだったのだろうか?という疑問が頭をもたげる。そこだけは異質だった。とてつもなく説得力のある場面だった。河井青葉が他のどのシーンよりも、彼女がこれまで出演したどの映画よりも輝いていた。彼女のネクストステージが観られて、本当はそれだけで満足だったのだ。その場で、「これぞ適役!」と心の中で唸ってしまった。劇場のロビーで、河井さんと立ち話をした際に、いちばん最初に僕が発した言葉が「適役でしたね」だった! そしたら彼女は「えっ、敵役?」と返しました。『爆撃機の眼』のときの繰り返しになるが、やはり彼女の天然性がおそろしい(笑) 最初に立ち戻ると、この作品には確かに欠陥は見当たらないのだけど、つまり至極ていねいな仕事が為されているのだけど、何が足りないのかと考えれば、学生だろうがプロだろうがそこは関係なく、おそらく映画に対する冒険ではないかと思う。ちょっとお行儀が良すぎてしまったかなという嫌いがあることは否めない。しかしながら、この監督の力量は底知れないなと感じる。前作『SOLARIS』を拝見してみたいし、次回作にもうんと期待が持てる。シナリオそっちのけの映像に比重を置いた作品も観てみたい。というかその意志と本作の素晴らしい部分を噛み合わせたものをこそ期待して待ちたい。

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愛の場面

自分や他者にむけて語るのではなく、
自分に似ている人物を想定しながら、
その人物にむけて必死に語り続けて、 
決して嘘をつかないで、届けること。


<告白について>

告白から、裏切ることを始めて、
裏切りを告白して終わるように。

<視線について>

複数の、異なる視線が常に存在している。
だから近づきすぎれば、全体が見えない。

<理想について>

理想を追いかけて、相手を変えようとするが、
理想は自分で作り、相手を変える必要はない。
女は女、男は男という真実は常に揺るがない。

<沈黙について>

すぐに相手は言葉で表わすことを求める。
しかし、意味を知らずに言葉を使えない。
自問自答している限りは、何もできない。
そのように問い質され、沈黙は深くなる。

<素顔について>

素顔をみられる恐怖がいつも付きまとう。
素顔を永遠に見つめる者などいないから。
「素顔を見つめられたら、忘れはしない」

<空虚について>

歩きながら考えることはひとつ
底を見るな 井戸の底を見るな
見たら最後だ 穴の底に落ちる

<空間について>

中心から壊れ始めるもの
外縁から壊れ始めるもの
最終的に空間が破壊する

<消失について>

求めあった瞬間は、かならず同時なのに、
失ったことに気づくのは、同時ではない。

<別れについて>

別れることの最大の不幸は、二人が完全に他人になること。
別れることの最大の幸福は、他人として再会できる可能性。

<再会について>

想像の先にいる過ぎた相手は、想像とは違うが、
しかし、過去には逆らえず、多く変わりはない。


[ある愛の映画を観ながら過った愛についての言葉の切断の欠片]
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拝啓、陸田真志様。


《法務省は6月17日、東京拘置所ほかで3名の死刑を執行したと発表した。1988〜89年にかけて東京・埼玉で起きた連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤(45)。95年12月、SMクラブ殺人事件の陸田真志(37)。85年11月と90年3月に、それぞれ主婦と男性を保険金目的で殺害した、大阪拘置所の山崎義雄(73)。宮崎勤は、事件発生から20年を経て刑が執行された。死刑確定から執行までの期間は「約8年」とされてきたが、ここ最近になって、その期間が大幅に短縮されつつある。宮崎勤が2年4カ月、陸田真志は2年8カ月、山崎義雄は3年4カ月だった。鳩山法相が2007年8月に就任してからは、2カ月に1度のペースで執行命令が出されている。2007年12月に3人、2008年2月に3人、4月に4人、そして今回の3名の死刑執行。》


[往復書簡/最後の手紙]

陸田真志 様

 約3年と11ヶ月ぶりの手紙となります。そのあいだに、何度かあなたの名前が脳裏を過りました。その度に、私は筆を握りしめて、あなたに届けるべき言葉を探してみたのですが、なぜかいつも折り合いがつきませんでした。はたしてどんな言葉が有効なのか? 塀の中に収監されている死刑囚と何を語り合うべきなのか? 齟齬をきたすのが当然と思われたために、つまり完全に思考のみの存在となっているであろう人間と対峙する困難をまえに、大きなためらいを持っていたのです。そうこうしているうちに、2005年10月17日にあなたの死刑が確定しました。
 その際に、あなたの文通相手であった哲学者の池田晶子さんは新聞上で、「死刑という極限状態に置かれて彼の思考は追い込まれ、ついに生死を超越した。もう生への執着はなく、死刑確定も平常心で受け止めるだろう」と書きました。 私もまったくの同意見でした。発表の翌日に、私はこのように走り書きした。「哲学的思考を続けてきた現在の彼が、真の意味で「死を受け入れている」ということは想像し易い。たぶんおそらく生死を超越して、「無我の境地」に近いところに達しているのではないだろうか。死刑が確定した現在、哲学がぶち当たる「存在の謎」というものに、どんなふうに対峙しているのかが私には気にかかっている。「無我」「無心」の手前をふらふらしながらも、陸田某は思考を止めないだろう。というか、止めることができないはずである。彼が発狂することはあり得ないと感じるのだが、彼が最後にとる「人間らしい行動」を私は知りたいと思っている。しかし、それは絶対に知り得ない。ならば私は、「自分が死刑確定囚の立場だったらどうか?」ということを考えるほかない。これまでも陸田真志を介して、そのことを考え続けてきた。これからも私の中で陸田某は、<罪と罰>そして<生と死>を思考するための媒介者として存在し、いつまでも記憶され続けることになるだろう」
 あまり多くを考えずに、さらりと流していたことが窺えますね。一方で、あまり深入りしすぎるのも良くないだろうなという思いがあったと言えます。たしか確定後の面談・手紙のやりとりには厳しい制限があったと思います。言葉を投げかけることがより難しい状況になったので、ノドまで出かかっていた言葉もむりやりに押し戻し、いつのまにか思い巡らすこともやめてしまいました。いまは、そのことに少しばかりの後悔があります。
 死刑未決囚から死刑確定囚へ。そこには大きな隔たりがあったはずです。感情・精神の変化、処遇・環境の変化、いつ死に迎えられてもおかしくはない極限の状況。しかし、あたなが取り乱すことは、やはりなかったのではないかと推測します。むしろ深く安心を覚えていたのではないかと私は考えています。「死は私にとって、励ましである」という態度を崩さなかったあなた、「死刑制度は私にとって、制度とすら呼べぬほどに、ごく自然な成り行きである」とも言ってのけました。そういえば、じつは池田晶子さんにもまったく同じ質問を投げかけてみたのですが、「死刑制度とは?」という質問に対して彼女は、「しょせん、この世の制度である」と一刀両断。とても彼女らしい解答ですね。お二方が言っていることは、だいたい同じようなことです。社会的な道徳と宇宙的な真理は相容れない。言い方を換えれば、社会的な責任と個人的な責任というものがあって、どちらに比重を置いたとしても、まあそれらは押し並べて自然なもの。とにかくあなたは、「己は死刑に処されて然るべきだ」ということを一度も疑いはしなかったはずです。多くの死刑囚とあなたを分け隔てるポイントがここにあります。
 今月17日に、あなたは望み通りに処刑されました。以前、執行直前の死刑確定囚の実例を、検察官や教誨師から伺う機会がありました。それは大きく二通りに分かれます。「狂い喚き、泣き叫び、暴れる者」と「諦念のなかで沈着冷静な者」というように。永山則夫は前者でした。彼は死刑が確定した瞬間にも大暴れしましたね。宅間守も公判中から暴言を吐き続けたことを考えると、執行の際にも相当大暴れしたのではないかと思われます。あなたの執行シーンを想像するとき、もちろん私は後者の様子を思い浮かべてしまいます。取材した検察官の言葉が今でも強烈な印象として残っています。「死刑執行する場というのは、裸電球が照らしてあってね、だからちょうど能の舞台のようなものだと思ってもらえばいい。その光景は、こういったら失礼かも知れないけれど綺麗なんです。とにかく能の舞台と思ってもらえば一番わかりやすい。周辺には窓なんてありませんからね… それが死刑執行の状況です」とこのように仰りました。能の舞台のような美しさ、あなたが潔く死に向かっていったのであれば、ましさくこのような状況が展開されていたのだろうと思います。
 取材した教誨師は、また別の角度から、「ある死刑確定囚が執行を前に、このように言いましたよ。「先生、先に阿弥陀様のお国へ生まれさせていただきます」と。先に生まれるのは、仏教では兄だと言われておりますから、「今度は、先生の兄になりますなぁ」と言ってね。「今度人間になって生まれてくるときには、死刑になるような人間ではなくて、世の中の人を導くことができるような人間になって出てきますから、どうぞ待ってて下さいね」って。そういうことを言いましたよ。そういうのを見るとね、本当にかわいそうだなと思ってね。死刑執行はしたくないな、と思いますけれど、これは国法ですから、どうすることもできないんです。私が一人で喚いたところで、止めるわけにはいきませんからね…」と幾分感情を高ぶらせながら、このように教えてくれました。あなたは教誨師のお世話にならず、最後まで自分の宗教・倫理観を貫いたはずなので、このような光景はなかったと思いますが、教誨師はもうひとつ、死刑確定囚の袖を掴み、所長や看守などお世話になった方々の前に連れていき、きちんと挨拶させることを徹底していると仰ってました。おそらくあなたは、それをさらりと自身の力でやってのけたことでしょう。 ある覚悟を持ったときのあなたには、きっと凄まじい集中力があるのではないか。それが悪い方向へ傾くことさえなければ、どんな分野でもそれなりに成果をあげられたはずです。そんなことを言っても仕方がないのですが…。
 執行の瞬間。(直前には)お茶を啜ることや煙草を吸うことが許されます。白装束となり、白い布で目隠しをされます。両脇を看守に付き添われて、薄い板のうえに立たされます。その直後に、五つのボタンが同時に押されます。五人の執行人候補によって。首にロープが締まったまま宙ぶらりの状態になります。数十分かけて、少しずつ意識が遠のいてゆく。そのときいったいあなたの脳裏には、何が浮かんだのでしょうか? 誰が浮かんだのでしょうか? 言葉なのか、走馬灯のような映像なのか…。涙が流れたのでしょうか? こんなことを考えるのは野暮でしょうか…。それは本当に美しい光景だったのだろうか。そんなわけはないですね。死に際の美しさなんて、馬鹿馬鹿しい話です。でもあなたの精神/魂が極めてにごりのない姿になったのは、たぶん紛れもない事実ではないかと想像します。残念ながら、死語の世界を語る趣味はありません。ふたたび生前のあなたの話に戻ります。
 「生きるうえで、いちばん大切なものとは?」という私の質問に、あなたは「普通に言えば、空気、水、食物、その他諸々。真の意味で言えば、「死」または「魂」の実感である」と答えました。真の意味ではあなたは、人生にとっていちばん大切なものを獲得することができたわけです。そして普通の幸福基準でいえば、あなたはそれらを悉く逃しました。拘置所の中に、おいしい空気、おいしい水、おいしい食べ物があるとは思えません。その他諸々… 恋愛、友情、芸術、豊かな暮らし? 完全な哲学的主体と化したあなたには、すべてが余計なものに感じられたかも知れませんが、やはり四季を感じて生きることは大切だと私なんかは思います。 エアコンが完備されたことは、あなたにお聞きしましたね。夏場になると、周りの囚人たちがアイスクリームを頬張って、文句タラタラで過ごしているのだと。その光景に対する憤りから、あなたはますます自己批判へ向かうことになった。罪を犯してもなお、反省の色を見せない殺人者があなたには理解できなかった。だからといって彼らを説得することは不可能。そんなときに、彼らと同じ資質を備えている双子の兄が思い出されたのではないですか? 哲学的思考というのは曖昧さや偽りを許さない厳しい世界です。たえず己を問いただすわけですから、そこまで自身を掘り下げていかなければ、本当の意味では罪の意識は見えてこない。そのような気づきがあり、そこからどんどん思考を追い込んでいった。善や徳の精神を理解しても、罪が赦されるわけでも、ましてや消えるわけでもない。あなたの自殺願望はそんなところから芽生えていきました。とにかく生き続けている状況、その傲慢さが矛盾に満ちていました。だから控訴を取り下げるという決断を一度はしたけれど、池田晶子さんの叱責によって、考え改めた。苦悩し続けよ!ということです。獄中で考えることは、苦悩以外の何物でもないはずです。そしてその苦悩の痕跡を語り続けよ!と。それが何の為に、誰の為になるのかは難しいところだったと思いますが、やはり殺人者の証言は、それが真に考え抜かれたものであれば、とても貴重なものになり得ると思います。被害者感情を考慮して、背景の真実を述べないことが、なにかの救いになるとは考えられません。
 直感的に思うことですが、あなたは塀の中で、半分くらい「生き菩薩」になっていたのではないでしょうか? 哲学をするには相応しい場所だと思いますが、やはり暮らしの哲学は皆無に等しいはずです。もちろんそこにも暮らしはあり、塀の中にも社会はあるのだと考えますが…。おそらく一度は、観念の怪物になり、やがてそれも虚しくなり、徐々に仏道を極めてゆくことになったのではないかと推測します。「人生の最後にしたいこと、見たいものは?」という質問に対して、「今こうしている事。今、目の前にあるもの」と答え、「別の人生を歩むとしたら、それはどんな道ですか?」という質問に対して、「今と同じ道。というかこの道は、いつか来た道」とすでに答えていたことからもそれは窺えます。「初めは全ての少年少女Aの為に書いていたが、今は例えば、便器や坐布団たちの為に小説を書いている」という冗談も飛ばしていましたね。まあもっとも塀の中では、その行為が本気になって当然だと思うのですが、そして塀の外であっても芸術に魂を奪われた人の中には、そのような目的で、書いたり描いたり歌ったりする人がいるわけですが…。私自身も一時期、その危険なスポットにはまり込みそうになりましたが、やはり社会は、また多くの大衆はそのような行為、人物を簡単には受け入れてはくれません。一部の知識人が、揃って笑い者にするか、ちょっと面白みや芸術性があれば研究のネタにするといったところだと思います。
 しかし現在、日本国内では殺人者(あるいは死刑)への関心が高まっており、まぁほとんどの人は高みの見物を決め込んでいると感じるのですが、もしあなたが獄中で何事かを考え続け、それらを文字に起こし続けたのだとすれば、そこには私たちの思考にとって鍵となる言葉の数々が散らばっており、たとえ難解であり、多少奇怪なものであったとしても、便器や座布団以上に、私たちの為となるのではないでしょうか。書き進めていると言っていた小説はどうなりましたか? 「売れなくてもいいから、買った!と言わせたい」とあなたは言っていました。つまり届かせたい、満足させたいということですね。もっと突っ込んでいえば、それは単純に「人々の、世の役に立ちたい」という思いを含んでいることになると思います。とりわけ、思想・精神が揺らいでいる少年少女たちの自問自答を加速させるものになり得るはずです。内容次第では、改心を促すということにも。あなたの真意がそのようなものであったかどうかは別として。私たちは、経験者の中庸に根ざした言葉というものを好んで信じる傾向があります。たとえば教師の言葉が中庸であるかどうかは私個人としては、大いに疑問があります。中庸の精神をゆく社会の実現などあり得ないわけですから、教師がその姿勢を教え説く可能性は極めて低いと言わなければなりません。「徳」を説いたりするのは、芸術家かいい加減なおっちゃんのどちらかと相場は決まっていますね。まぁそのだいたいがアウトサイダーたちですね。だから時に殺人者が、「自分や自分の過去、犯罪を特殊化することなく、普遍的な事柄を正確に述べる」という事態が起きてもおかしくはないわけです。まぁかなり驚きはするのですが、あなたみたいに、異常なまでに「正義/善」に対する執着を抱いているとなれば尚更のことです。
 家庭環境、教育機会の問題、自立のタイミングなどは、やはり犯罪の種を生む大きな要因であると私なんかは考えてしまいます。性格(性質)の問題も譲れませんが、それはまた血族と教育の問題と重なり合ってくる箇所ですね。最後には、単純に能力(資質)の問題が残されます。開花するかしないかは、運とでも言っておきましょうか。努力の成果という言い方が世間では好まれますが、たとえば哲学なんかは努力によって育まれるものではありませんね。やはり、わかるひとにしかわからない。だいぶ直観がものをいうし、けっして経験値で語ることのできるものではない。ちいさな子供がわかってしまうこともあるのではないか? 
 あなたには真理に到達することができる思考能力があったわけですが、犯罪を契機として、ようやくそこに辿り着いた。これはやはり残念な結果だったと思います。どうしても惜しいなと感じます。あなたにとっての唯一の不幸は、そのことだったのではないですか? とりかえしのつかない行為、被害者の側から見れば、とりかえしのつかない目に遭うこと。これはどんな力によっても逆転できません。そのほかの不幸は眺める角度を変えれば、一応はなんとかなるはずです。人生が一回性であるという恐怖と快感(スリル)が常に私たちを取り巻いています。人の歯車が狂うときは、その渦に巻き込まれたときだと思います。成功と失敗、その判断もほんとうは眺める角度次第と考えられますね。社会や人間が決めるものではありません。逆な言い方をすれば、所詮、社会や人間という次元の副産物です。 でも多くの人は、小さな幸せを守り抜くために、そこに力を注ぎます。個人の充足、家系の繁栄など。それが悪いことだとは思いませんが、そこだけに固執している限り、犠牲者は絶えないわけです。私は少しひねくれているので、すすんで犠牲者になりたいという衝動に駆られるときが多々あります。誰かが犠牲にならなければいけない構造が透けてみえるので、ならば犠牲者になりたい。生活の豊かさを得るために、感情や身体の機械化を施さなければならないのだとすれば、貧しくても人間性を守り抜きたい。正しいことを口にする人間があまりに少ないことが恐ろしくて仕方がないわけです。非常にやさしい哲学の「無知の知」だけでも人々に浸透したならば、また事態は変わるかも知れません。まぁこれはとんだ脱線であり、弱者の戯言に過ぎませんね。
 しかしながら、自我/アイデンティティと付き合うのは、私たちの永遠の課題だと思います。他者との関係性によって、自身のポジションを精確に見極めていくしかありません。背後や足元に、人智の及ばない大きな力が潜んでいる事実はさておき、やはりコントロールされるよりは、コントロールしたいと願うのが人間という存在なのだと思います。ゆえに競争原理が消えることはないでしょう。単純にいえば、その本質は誰もが自由主義者であるはずだから。
 さりとて、「徳」を失いつつある社会では、そのあたりのバランスを整えることはとても難しいわけですが、よってやはり、さまざまなレッテルを貼られてしまうことを余儀なくされる日常を、多くの人が生きることになります。そこである種の劣等感が育まれ、暴力へ加担する歪みがそこから生まれてくるということも、防ぎようがない気がします。この問題を広げるつもりはあまりないのですが、「自分の人生は、失敗だと思いますか?」という私の質問に対して、「まだ、功を成してないので、このままでは「失敗」となる」とあなたは答えました。この言葉には個人的な感慨も多分に含まれていると思いますが、もうひとつ私が感じたのは、社会の失敗のことです。あなたにとっての成功とは、おそらく自分自身の身近な幸福のことではなく、「徳を広める」という功を成すこと、その一点だったのではないかと思い至ったのです。あまりにも杜撰で、いい加減な徳が説かれている世間に対して、切り込んでゆける立場にいない。その歯がゆさを、ずっと持ち続けていたのではないでしょうか。
 しかし、あなたは「このままでは失敗する」という現在形の言葉を選んだ。まだ可能性を捨てていなかった。唯一そのことを実践できる行為、「書くこと」に根気づよく立ち向かっていった。ある種の挑戦というか、ある種の罪滅ぼしとして。だから私は獄中の中であなたが何を書いたのか切に知りたいと願っている。もしかしたら途中で投げ出してしまったかも知れないな、ということを思わないわけでもありません。それくらい大きな、真剣さを要する仕事だったはずです。ぜひ私たちの元に、届いて欲しいと思うのですが果してどうなのでしょうか。ただただ処分されていないことを祈るばかりです。
 堂々巡りの内容のない手紙となりつつあります。まぁそれは書き始める前から薄々気づいていたのですが、ここにいないあなた、返答の当てのない相手に、いったい何を語ればいいのか、別に自分自身の呼吸の確認をしたいというわけでもなかったのですが、どうやらその方向に筆は進んでいるようです。手紙の形式を選択したことが間違いだったのかも知れません。まぁ初めから吟味して書くつもりはなかったので形式は別に問題ではないのですが、とにかくあなたの著作を待つほかには対話の手立てがありません。書いたものをあなたが出版社に送ったのかどうか。電話で問い合わせたところ、担当者が不在だったので、また週明けに聞いてみるつもりです。教えていただけるかどうかは分かりませんが…。
 話の角度を変えてみます。宅間守は異例の早さで確定から約1年での死刑執行となりましたが、あなたは死刑確定から2年8ヶ月での執行となりました。それでも十分早いなと私は感じるのですが、いったいどのような基準で、執行される死刑確定囚が選ばれているのか…。「慎重の上にも慎重に検討した結果、絶対に誤りがないと自信を持って執行できる人を選んだ。数日前に執行を命令した」と法務大臣は述べています。単純に殺害した人数、悪質な動機というのが選択基準となっているのでしょうか。あなたは金銭目的で2人の人間を殺害した。共犯者がふたりいて、計画的な犯行だったという理由も大きかったのでしょうか。犯行当時に精神錯乱だったという疑いはなく、冤罪の可能性もない。そのような項目がうまく並んでしまったゆえでしょうか。まさか死の覚悟を強くもっていたから選ばれたということはないでしょうけれど、どのような基準で選択を行っているのかは少し気にかかるところではあります。というのも、死刑確定囚を死刑執行するタイミングというのが、どうも政治的思惑によって動いているように感じられるからです。
 酒鬼薔薇聖斗の事件(神戸連続児童殺傷事件)が起きた直後に即、「未成年者の殺人」という共通項によって、永山則夫の死刑執行が実施され、今月8日の秋葉原通り魔事件を受けて、「オタクの殺人」という共通項によって、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件のあの宮崎勤の執行が早急に実施された。私は死刑に反対でも賛成でもない、あるいはそのどちらでもあると思っているのですが、犯罪抑止効果を期待しての、見せしめのために、ある死刑確定囚の死刑が急がれることには、どうも首を傾げてしまいます。
 最近の執行状況を見る限りでは、3〜4人がまとめて執行のスタンプを押されているようで(その方がなにかと都合がいいのだろうか?)、今回の執行に関していえば、宮崎勤を是が非でも早急に執行したいがために、あとの2名をとりあえずパパッと選んだという気がしないでもないのです。あらかじめ順序が決められたリストのようなものがあるのかも知れませんが…。いずれにしても秋葉原通り魔事件の影響を被ったという事実は揺るぎない気がします。あなたが死刑執行されることに、どんな異議も異論もありませんが、6月17日である理由は見当たりません。いえ別に、6月17日だっていっこうに構わなかったのですが、宮崎勤と同じ日に執行されてしまったことは、あまりに皮肉な結末だったなと思います。
 あなたは、正しく己への罰として死刑執行がなされることを望んでいたと思います。しかし反省の色をまったく見せない死刑確定囚の代表例とも言えるであろう宮崎勤の、知名度の陰に隠れてしまった。死刑執行が世間に広く知れ渡る必要などないのですから、隠れてしまうことは大した問題ではないのですが、歴史的な事件を起こした宮崎勤の死刑執行のニュースに、奇しくもぶらさがる恰好となってしまったことが、なんとも滑稽であるなと思わずにはいられません。死刑囚だからといってその個人には目もくれない人々によって、一緒くたに取り扱われる可能性が生まれてしまったわけで、それは決してあなたの本意ではなかったでしょうね。もっともあなた自身が、宮崎勤と同じ日に執行されたことなど知る由もありませんし、死後の自身の扱われ方をどれほど気にしていたのかも分からなければ、そんなことはちっとも気に留めてなかった可能性もあるわけですが、傍目からこの状況を眺める限りでは、あなたの書いたもの、伝えたかったことにとっては、苦笑せざる得ない不幸を伴ったなという気がします。まぁ非常につまらぬ杞憂だとは思います。単純にあなたの存在があまりマスコミに認知されていない、大物は別として、死刑確定囚である個人を取り上げる理由がないというだけのことかも知れませんが…。
 しかし、『死と生きる』(1998)を手に取って読んだことのある者にとっては、この書籍が死刑問題や犯罪をドキュメントするのに好材料であることは明瞭なんですけれどね。非常に深い場所で、「生と死」を考える羽目にはなってしまいますが…。殺人(者)や死刑(囚)のうわずみだけを掬って、ニュースで祭のように騒ぎ立てているだけなのだったら、まだあなたの言葉の方が「何か」の、そして「誰か」の役に立つのではないかなどと考えてしまいます。いまジャーナリズムはとても難しい状況にありますね。
 もちろん哲学的な見地からみれば、『死と生きる』はあなたも語っていたように、思考、記述ともに粗略な部分、衝動的な誤りがあるわけですが、そのために私は続きの文章を心待ちにしている次第です。こんなことをいないあなたに言っても仕方がないけれど…。あなたは約十二年間を獄中で過ごし、三十七歳を迎えて亡くなりました。『死と生きる』を発表後の空白は約十年間、その分だけの思考の軌跡、とりわけ生と死の考察、殺人の問題を書き留めたものが残されていると推測されるわけです。きちんと出版社に送っているのであれば、近いうちに上梓されるでしょう。まさか燃やしてしまったということはありませんよね? みずから身内に処分をお願いしたという可能性も否めませんが、それはそれで良いことであるような気がします。納得がいかなかったということもあるでしょう。国家が処分してしまうようなことがもしあったならば、それは事件ですね。まぁそれでも構わないでしょう。とりあえず後で確認をしてみます。
 実はひとつ書き残してしまった重要な問題があるのですが、それはあなたが書き残したものの中に、その一端が記されているのではないかと直感的に感じています。ほとんど映画的といっても良い、ひとつの真実のドラマなのですが、さてそれは私のあまりに個人的な思い過ごしなのでしょうか…。
 
<追記>

 執行される死刑確定囚の選択基準が気にかかってましたが、少し調べてみたら、なんとなく理解できました。つまらない憶測に過ぎませんが、まずは再審請求中でないことは大前提として、もちろん殺害人数も考慮されますが、それ以上に被害者の「身分」なのだなと感じました。「子供と女性、そしてエリート」を殺害した者が、優先的に執行されているというのが統計的に見て取れました。陸田真志は、慶応大卒のエリートを殺害しています。

 やはり、「被害者(遺族)の立場」を慮ったうえでの判断が先行している中立性のない、感情的な死刑執行では、根本的な解決が生まれるわけがないという気がしてなりません。死刑廃止論者の人道主義もまったく同じ。死が問題なのでは決してない。悔いること、反省すること、善と悪に気づくこと。

 被害者の感情を考えるのと同じくらい、私は加害者の感情も考えたいと思っております。しかし、個人の成熟が成されていない限り、感情論に意味はないと思います。そもそも、社会(集団)の構成員が表面上で何事かを主張しあうことに価値を感じません。「死刑が極刑である」と信じて疑わないというのは、理性的に物事を考えたことがないというのに等しいと思います。

 私個人としては、「利己的(遺伝子)」と「利他的(遺伝子)」という<社会的ではない>行動学の視点から、考えをひろげて行きたいと思っております。あまり観念的な方向に偏らないように気をつけなければなりませんが、哲学が悪になることは絶対になく、「善」を考えるための貴重なツールですから、そこは避けたくないし、やはり多くの人が、きちんとした思考主体を持つほかはないと思います。

成熟していない主体が、個人的な思想を有するのは悪だと思います。
成熟していない個人が、社会的な思想をというのは言葉にならない…。


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往復書簡/四通目の手紙〜五通目の手紙



[往復書簡/四通目の手紙]


陸田真志 様

 徐々に蒸し暑さが増していくこの時期、いかがお過ごしでしょうか? お元気の事と信じております。私たちの質問状に対する御丁寧な回答、誠にありがとうございました。一同、大変興味深く拝見させて頂いております。「創作」のお時間を割いてしまったことに対して、改めてお詫び致します。申し訳ございませんでした。陸田様の心温かなご協力に大変感謝しております。
 私たちの「研究」も、いよいよ終盤へと差し掛かってきました。当初の予定から「研究内容」が大幅に変わったということはないのですが、<研究対象>が広範囲に及んだことによって、いろいろな意味で「深み」にはまっておりますが、なんとか“終着地点らしきもの”が見えてきました。陸田様の先の助言によって、「哲学的な地点」から離れられたことが功を奏しているようです。
 「陸田真志の生涯」、「死刑制度」や「殺人・犯罪」について“考える”というのは、やはり容易なことではありませんでした。とはいえ、私たちはこれまでに、陸田様との手紙のやりとりを初めとして、「死刑制度・殺人」周辺の問題に関わりを持って生活をしている人々の多種多様なお話、考え方に接してきましたので、多少なりとも「死刑囚の真実の姿」や「死刑制度の現状」というものを把握しつつあります。私たちのような若輩者にとって、それら「未知の世界」の話は実に衝撃的であり、考えさせられるものがありました。最後まで集中を切らさずに、「研究」を進めていきたと思っております。
 現時点で、「研究・発表用」の素材はほぼ整いましたので、以降は訂正・補足のためのやりとり、あるいは「研究」を離れたやりとりになっていくと思いますが、陸田様のお時間が許す限り、御付き合いの程よろしくお願い致します。これからも私たちは、陸田様の「現在進行形」の姿、「現在進行形」の言葉など、その動向に注目させて頂きます。是非とも、御自身が納得のいく素晴らしい作品を上梓してください。善く生き続けてください。それでは失礼致します。

 2004年6月17日 日本映画学校・映像科一学年
            HゼミナールA班 一同 

 追伸:これまでのお互いの三通の手紙を活字化したものを御送りさせて頂きます。校正用のものも同封させて頂きましたので、訂正・補足などがございましたら、そちらに直接、書き込みをして頂ければと思います。もしかすると研究期間内に、陸田様のご回答に対する感想などを御送りするかも知れませんが、その折はよろしくお願い致します。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 拝復

「校正」のもの、お送り致します。いつもと同じく宜しく御判読下さいます様に。
 又、「創作」の時間を割いてしまった、等の御言葉がありましたが、結果として今、書いている「もの」に役立ち、私の方から礼を申し上げる所です。有難うございました。で、結局の所、何故、私が、この「研究」に協力、というより「加担」したかと申せば。恐らく、皆様の中で、勘のイイ方は、お気付きのように、私が今、書いている「もの」の為です。と、言うか、それを「売る」為です。即ちこれまでに、私が書いた手紙や「回答」等は、(映画で言う所の)予告編です。あれらの中には私が、今、書いている「もの」の「エッセンス」が、入っています。又、あれらを読んだ、(又は、その「研究発表」を見た)貴方は私の書いている「もの」が読みたくなっている事と思っております。恐らくは。
 そうゆう様な訳ですから、私も皆様を「利用」しており、何ら「感謝」される筋合いはないのです。お気になさらぬ様に願いします。それと、又、私のような者に「注目」されるよりは御自身のやるべき事に「注意」して下さった方が、私は嬉しく、尚又、あまり、私の方には(今回の「研究」に関するもの以外の)手紙等は、下さらぬ様にお願いしたいのです。私の性分から、来た手紙は皆読んでしまい、又、それについて「考えたり」してしまう為。(特に「哲学的」な手紙程、うんざりするものはないので。それでも、「プロポーション」に自信のある女性と「SM好き」の女性の手紙はO.K.)
では、そのような次第で。皆様、今後、どういった道に進まれても、精進されます様に。健闘を祈ります。

 敬具

 2004年6月20日 陸田拝

 追記:人間は、皆、死んでいくものなので、「善く」生き続ける事は、できないのです。できるとすれば「善く」在ろうとする事だと思っております。それ故、取り敢えず、私は「ペン字」を習います。 


[往復書簡/五通目の手紙]


陸田真志 様

 本格的な梅雨が訪れぬまま、初夏を迎えることになり、シャバに居る私たちには、大変清々しいことではありますが、そちらの方々にとっては、いずれにしても地獄さながらの様相を呈する時期であり、いっそうの覚悟が必要になっていることとお察し致します。陸田様自身は、暑さに構わず、「創作」を進めていらっしゃると信じておりますが、実際の所はいかがでしょうか?
 さて、私たちの「研究」の方はどうなったのかと申し上げますと、事後報告になってしまい大変恐縮ですが、陸田様からご指摘頂いた箇所を修正した後、いくつかの試行錯誤を経て、<シナリオ最終稿>は納得のいく形に仕上がりました。
 去る6月30日、私たちの「発表」は満員盛況のもとに行われました。自己満足に陥らぬ様に、最後まで「エンターテインメント」を追究した結果、どうやら「観客に深く感動を与える作品」へと至ってくれたようです。
 それは、発表者である私たちが受けた印象に留まるものではありません。発表直後に、生徒や講師の感想を伺う形式になっているのですが、その場で多くの方々から、「これは力作である!」という言葉を頂きました。もちろん、もう少し「陸田真志という人間」に深く迫って欲しかったなどの意見も出たのですが、裏を取ればそれも、作品を通して、「陸田真志」に興味を持たせることができた、という点では成功であり、“こちら”の狙い通りと言えましょう。
 構成や時間の関係上、陸田様から頂いた60の回答を全て盛り込むことはできなかったのですが、発表が終了してから、「他にどんな質問をし、どんな答えが返ってきたのか」と、私たちの教室に足を運んでくれる生徒も見受けられました。
 また、担当講師の後日談によれば、8クラス16班の「発表」に対して行われた講師陣だけでの反省会議の中でも、私たちの作品が“突出したもの”であったことを認める意見が、相次いで出ていたとのことです。
 このように好評を博するかたちで、私たちの「研究・発表」が無事に幕を閉じることができたのも、ひとえに陸田様のご協力の賜物であります。どんなに陸田様が「感謝する必要はない」と仰られても、やはり私たちは感謝せずにはいられません。誠に有難うございました。なんとか陸田様に恩返しをしたいと思うのですが、私たちが何かをした所で、それは本末転倒というか、ご迷惑をお掛けしてしまうことでしょう。
 そこで私たちは、すでに陸田様に恩返しをしたのだと、自らの胸に言い聞かせることにしました。それは決して大げさなことではありません。私たちの研究発表を見たものが、陸田様が執筆中の小説を読みたくなっていることを、私たちは実感として持つことができたのです。実際、タイトル(仮題)やその内容を聞きにくる生徒や講師がおりました。このことにおいて、陸田様の望まれていたことが、ひとつ果たされたと信じております。
 陸田様に「シナリオ最終稿」を御送りさせて頂こうと考えていたのですが、いくつかの点から思い止まっております。(書籍からの引用、関係者のインタビューによる)「死刑執行」に関する生々しい表現が相当数あること。シナリオのみでは、私たちの「陸田真志」に対する解釈が、陸田様に誤解を招いてしまうかも知れないこと。スライド、ナレーション、BGMなどを併せた演出による「発表」を見てもらって、初めてそこで「作品」は完結すると考えているためです。
 私たちの一存では、やはり決めかねることですので、陸田様の意見をお伺いしたい所存です。また、Dさんをご紹介頂いた件では、改めて感謝せねばなりません。彼女の存在、彼女の放った言葉が「作品」に広がりを持たせてくれました。私たちとDさんの間で交わされた言葉を、どの程度まで陸田様に伝えてよいものか、こちらの方も非常に迷っております。併せてご検討頂ければ幸いです。
 先の御手紙で陸田様から助言を頂きましたように、これから私たちは、自身がやるべき課題を背負って、日々精進していきたいと考えております。陸田様も、御自身の限界に挑戦し、人々に感動を与える作品を上梓してください。「善く在ろう」とする限りにおいて、もはや陸田様は、「陸田真志(あるいは、只のひと)」でしかないと思います。殺人犯、死刑未決囚という肩書きに気負うことなく、世に語り継がれる作品を残してください。心より期待しております。

 2004年7月2日 日本映画学校・映像科一学年
           HゼミナールA班 一同    


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往復書簡/質問状と解答



[陸田真志に関するQ&A]

【自分(感情面・性格)について】

Q1 自分が自覚している性格は?
A1 一つの事を偏執的に考えてしまう。又、考えさせられてしまう。

Q2 他人によく指摘される性格は?
A2 「何を考えているのか、よく分からない性格」とは、よく言われた。恐らく本当の意味では、何も考えていなかった為である。

Q3 「自殺願望」を持ったことはありますか?
A3 「願望」ではないが、そうすべきではないか、と拘置所に入ってから一年位(正確には14ヶ月間)、ずっと考えていた。又、一審後、控訴(弁護士に)を取り下げようとしたのも一種の自殺願望と思える。

Q4 自分を「心理学的」に分析するとしたら?
A4 (私は心理学をキチンと勉強した訳ではないので)全くの素人的見解だが、C.G.ユングの「タイプ論」で言えば、本来、内向性。しかし 思春期頃から、自分のその性向に反発し、外向性を志向するも(当然)上手く行かず、結果小さい頃(又はそれ以前)からの「悪」への内向衝動を「犯罪」という形で、ごく単純に外向化させ、今に至る。現在は、それが「書くー考える」という形で統一化されている(即ち、外向的内向性)、又書き物と同じく「功夫」している中国武術においても、それは上手くいっている(即ち、内向的外向性)。

【趣味・嗜好について】

Q5−1 好きな本(哲学・文学・詩)は?
A5−1 私が読む、又は見るに値する全ての本(哲学、文学、詩に限らぬ。例えば「巨乳アイドル」の写真集でも同じ)。

Q5−2 嫌いな本(哲学・文学・詩)は?
A5−2 私が読む、又は見るに値せぬ全ての本(自分の書いたものも含む)。
 
Q6−1 好きな映画(作品・監督・俳優)は?
A6−1 私が観るに値する全ての作品。子供の頃、一番見たかったのは『時計じかけのオレンジ』(S・キューブリック監督?) 

Q6−2 嫌いな映画(作品・監督・俳優)は?
A6−2 私が観るに値せぬ全ての作品。ブコウスキー風に言えば、“very very hollywood”なものと、“quite quite cannes”(それに類する所)なもの全て。

Q7−1 好きな音楽(曲・歌手・楽器)は?
A7−1 私が聴くに値する全てのもの。例を挙げれば、モーツァルト、M・デイヴィス、スティング、ドナルド・バード、ロニー・リストン・スミス、シャーデー、その他。

Q7−2 嫌いな音楽(曲・歌手・楽器)は?
A7−2 私が聴くに値せぬ全てのもの。例えば、『ラブ・マシーン』以降の「モーニング娘」(つんく)。ファースト・アルバム以外の宇多田ヒカル、その他。と言っても、私にはナボコフ的趣味はない。

Q8 サディストですか、マゾヒストですか?
A8 精神病理学的な意味では、どちらでもない。只、私の解釈における「S(サド)ーM(マゾ)」といったものは(O・A・F・サドやS・マゾッホが必ずしもそうではなかった様に)、「加虐ー被虐」関係ではなく、「支配ー服従」更には「主なるものー仕えるもの」の関係と捉えている。その意味では、「マゾヒスト(従属、臣下的)」と言うか何にせよ、「ものを創る」タイプの人間は、皆そうである(それが真にオリジナルなものである限り)。又、性的な遊戯(プレイ)としての「SM(ロールプレイ)」なら、何方(どちら)もこなせる。只、相手は女性に限る(ニューハーフならギリギリOK)。

Q9 酒、煙草(ドラッグを含む)の嗜みはありましたか?
A9 酒は随分飲んだし、勉強もしたが(一時、バーテンダーとして働いた為)、一日も欠かせぬという事はないし、それがないと「考えられぬ」という事もない。むしろ、酒を飲まぬ時の方が考えは冴える。タバコは高校生で止めた(美味いと思えぬ為)。「ドラッグ」も色々試したが、どれもハマれず(覚醒剤、マリファナ、コカイン、ハシシetc)、結局最も身体に合った「ドラッグ」はアルコールであった(しかも安い)。

【愛・恋愛観について】

Q10 「愛」とは何ですか?
A10 私の今の見解では、「救心的かつ速心的なエネルギーの一つ」で、所謂「純愛」と「性愛」も窮極の所では一つだと考えている。

Q11 真剣に人を愛したことがありますか?
A11 分からぬ。恐らくない。それ故、今は全てのものを仁(いつくし)んでいる。コンクリート壁さえも。

Q12 印象深い交際経験は?
A12 所謂「付き合った」女性は多いが、「交際」の経験はない。なぜなら自分の好きな時だけ「会って、メシ食って、ヤって」飽きたら別れる(捨てる)というのは“交際”とは言わぬ。更に私の場合、「ヤる」事においてすら交じってない。それは、相手の身体を使った自慰にすぎぬ。

Q13−1 好きな女性(男性)のタイプは?
A13−1 イイ奴。

Q13−2 嫌いな女性(男性)のタイプは?
A13−2 ヤな奴。

Q14 「結婚」というものをどのように考えていますか?
A14 極めて「宗教的(reilgious)リリジャス」な行為であると思う(「宗教・reilgion(リリジョン)」の原義は「再び・結び付ける」)。そういった才能があり、そうする事が“切実”に必要と思える(感じる)ならば、是非ともした方がよい(だが大抵そういう場合は、相手が見つからぬか、相手に嫌がられる)。 

Q15 自分の子供は欲しいですか?どのように育てますか?
A15 欲しくない。恐らく殺人犯の父親を持った子供は、あまり良い気分ではない。

Q16 「獄中結婚」をどのように思いますか?
A16 所謂、「普通の結婚」とそう変わらぬ。した方がよい時もあるし、しなかった方が良かった時もある。

【家族・友人について】

Q17 「アイデンティティ」について考えるとき、賢志氏の影響は?
A17 他の全てのものと同程度には考えた(なぜ私が「アイデンティティ」について考えていた事を貴方がたは知って居るのか?)。
 
Q18 両親や兄弟(家族)の、存在とは?
A18 他の全ての存在するものと同じ。即ち、ありがたきもの。

Q19 両親の「教育」を振り返ってみて、何を感じますか?
A19 父は、かなり厳しく、母は随分と優しく、全体的に見れば、よくバランスがとれていた。「教育」というものは、最後の所では“子供自身”でやるものである。

Q20 「家族」に対する賢志氏との受け取り方の違いとは?
A20 彼は自分の主観(又はコンプレックス)を通して、その「家族イメージ」が作られている事に気付いてない。絶対的な主観も客観もない。

Q21 長兄に対しての「尊敬」とは?
A21 私は小さい頃、長兄が嫌いであった(真面目、優等生、見かけがパッとしない等の理由で)が、拘置所に入ってから反省するに、彼が自分の方向性を子供の頃から、よく掴んでおり、それへの努力を怠らなかった偉さに気付いた。それに対する「respect(見直し・尊敬)」である(とは言え、兄も人間であり、完全ではなく、「worship(尊崇)」するという事はない。それはソクラテスも釈迦もイエスも同じ)。

Q22 心から理解し合える友人はいましたか?
A22 (人ではないが)ずっと居た。即ち「自己」。が、それに気付こうとしなかった。

【過去について】

Q23 幼年期と青年期に憧れた職業は何ですか?
A23 幼年期には全くない。青年期には兎に角金を稼げればなんでもよかった。アメリカに居た頃は、「堂 (トン)」(中国マフィアの結社)の首領に憧れたが、日本人には無理と思っていた。それ故自分と「仲間」達で新しく、「堂(トン)」を作りたいと思っていた。

Q24 故郷で、深く心に残っている思い出は?
A24 幼稚園の遠足で、級友の一人が溺死した事。小学生の時、同学年の生徒が「鉄棒」から落ちるかして死んだ事。中学に入るか入らないかの頃、級友の父親がパチンコ店で刺殺された事。そういった事を目にしつつ、「自分は不幸な子供だ」といつも思っていた事(双子の兄は未だにそう)。

Q25 アメリカ(外国)での印象的な出来事は? 
A25 (N.Y.に)着いた翌日、初めて行ったのが玉撞き屋だった事。ハーレム地区にある映画館に一人で入り、スパイク・リー監督の『マルコムX』を観た事。初めて本物の拳銃を入手し、又、それによって人を殺そうと思った事(実行せず)。初めて「友人」と思える様な人間に会った事(思えただけ)。その人間が私を呼ぶのと同じ様に、「仲間」と呼んでいた者を「殺そう」と言ってきた事。初めて銃口を“こめかみ”に押し当てられ(刑事に)、「死」というものを間近に感じた事。拘置所で暮らし、アメリカ(N.Y.)における最も人種差別 的人種(有色人種に対する)は、「黒人(ブラック)」だと知った事。前述の「堂(トン)」の首領で、当時の老大爺(ゴッドファーザー)であった「B・オン(ベニー・オング)」、通称「uncle seventh(アンクル・セブンス)」に会った事(私はチンピラ故、話はできず)。中国マフィアの人間との食事の席で、初めて「殺し屋(ハケット・マン)」と言われる類いの人間と話した事(しかも名前が「Joe(ジョー)」)。結局、保釈期間中に日本へ逃げ帰るまでの三年近く、自分はどこまで行っても孤独なのだ、と内心気付きつつも、決してそれを認めようとしなかった事(帰ってからも尚)。

Q26 「風俗業(SMクラブ)」を職業に選んだ理由は?
A26 取り敢えず、日銭が欲しかった為だが、「SM」への興味もあり、又「悪」の感じが「SMクラブ」にはあった為。

Q27 多額の金を得て、いちばん強く感じたことは?
A27 金はある程度の額を超えると、通常の価値がなくなる(つまり使えぬ)という事。

【事件・殺人について】

Q28 人を刺したときの感触を覚えていますか?
A28 「刺した」感触は、あまり覚えてないが、頭を斧(ハチット)で「叩き割った」感じなら今も手に残っている。

Q29 殺害時に、感情の自己制御はできましたか?
A29 私だけではないと思うが、計画的な殺人犯は実行以前から「制御」する様な感情は動かしていない。

Q30 殺人の体験を「言葉」で語ることは可能ですか?
A30 今、それを作品中にて書いています。

Q31 賢志氏は、事件をどのように捉えていますか?
A31 自身のファンタジーの中だけで捉えています(彼をかばった私にも責任がある)。

Q32 もし自分が被害者家族だったら、どのような行動を取りますか?
A32 今、彼らが取っている行動。

【拘置所における生活について】

Q33 拘置所の中で「生きる」とは?
A33 寝て起きて、クソして食って、又寝る事(どこでも人は、そう)。  

Q34 拘置所の中で「考える」とは?
A34 (“私において”ですが)自分の生を真の意味(センス)で「生かす」又は「活かす」事。あるいは、その感覚(センス)を得る事。

Q35 拘置所の中で「幸福」を感じた瞬間はありますか?
A35 '98年、1月31日未明。兎にも角にも「成道(じょうどう)」した瞬間(その後「大迷」)。今は「幸福」か「不幸」か、さっぱり分からぬ。只、これで「宜しい」とは思える。 

Q36 拘置所の中での「最大の不幸」とは?
A36 自分を「不幸」だと思い込む事。殺人を犯しておきながら、自分の「無実」を訴えている内、自分でもそれが事実だと信じ込む事。更には、それによって無罪放免になってしまう事。

Q37 「死の恐怖」に追われていますか?
A37 死は私にとり「励まし」である。

【死刑制度・その周辺人物について】

Q38 陸田様の内的動因を強めた「死刑制度」とは?
A38 (内的も外的もなかったのですが)「制度」とすら呼べぬ程に、ごく「自然(じねん)」な成り行き。

Q39 法の下で、人が人を殺めることを、どう感じますか?
A39 (これは「殺める(あやめる)」と読むのでしょうが)“あやめる”のではなく、全き「正義(ジャスティス)・法」と感じる(即ち、絶対に人を殺してはいけない事はない)。

Q40 「刑務官(看守)」とは、どのような存在ですか?
A40 家族や兄弟のようなもの。即ち存在するもの全てと同じく有難きもの(又、私には申し訳なきもの)。

Q41 「死刑執行人」を、どのように思いますか?
A41 私や貴方達と同じく、時には人を殺さねばならぬ人。

Q42 「教誨師」とお会いしたことはありますか?
A42 ありません。

Q43 「教誨師」という存在をどのように思いますか?
A43 人を殺すまでになった者、又は「魂(たましい)」を、“本当に” 教え誨す事の出来る“人間”が居れば、誠に結構な事だと思う。

Q44 陸田様にとって、「教誨師的な人物」は誰?
A44 (人物ではないが)自己。

【社会について】

Q45 「過去と現在の社会」をどのように感じますか?
A45 (人間の、それも日本の「社会」という事でお答えしますが)何も変わっていない。 

Q46 「社会の未来」について考えたことはありますか? その姿は?
A46 今と変わっていない。

Q47 自分の青年時代と比べて、現代の若者をどのように感じますか?
A47 私よりは皆、相当にシッカリして居る(しかし、私のレベルの低さを考えてもらいたい)。
 
Q48 在監者にとっての「社会」とは? 外側の世界とは?
A48 (各人によって違うのでしょうが、私においては)獄中(なか)も外も同じ一つの「社会(シャバ)」でしかない。 

【人生について】

Q49 生きるうえで、いちばん大切なものとは?
A49 普通に言えば、空気、水、食物、その他諸々。真の意味で言えば、“死”又は「魂」の実感。

Q50 人生の最後にしたいこと、見たいものは?
A50 今こうしている事。今、目の前にあるもの。

Q51 自分の人生は、失敗だと思いますか?
A51 まだ、功を成してないので、このままでは「失敗」となる(即ち、不成功)。

Q52 別の人生を歩むとしたら、それはどんな道ですか?
A52 今と同じ道。と言うか、この道は、いつか来た道。

【その他】

Q53 もし「無期懲役」になったとしたら?
A53 恐らくは、どこかの刑務所に引っ越さねばならぬ。骨の折れる事である。

Q54 何のために小説を書いていますか? 売れて欲しいですか?
A54 初めは「全ての少年(少女)A」の為に書いていたが、今は(例えば)便器や坐布団達の為に書いている。又、出版するしないに拘わらず(「売れたい」のではなく)、「売りたい」又は「買った!」と心底言わせたい。

Q55 「小説を書く」という行為に勝るものはありませんか?
A55 いくらでもある。例えば、クソをする事。と言うか、両者の間に優勝劣敗(ゆうしょうれっぱい)はない。

Q56 「死と生きる」を執筆時の自分と現在の自分の大きな違いは?
A56 自分の考え方や文章の下手(まず)さが分かっている点。

Q57 「死刑による死」と「(一般的な)死」の違いとは?
A57 よぉく考えてみると、そんなに違わない。人間(じんかん)到る所青山あり。

Q58 どのような「夢」を見ますか? 自分の夢解釈は?
A58 私は'99年から毎日、夢の記録をつけているが、同じ夢はまずなく(同じ場所はある)、それ故書き切れぬ。又、一定の解釈法もなく、その夢“自体”を味わうしかない。他人には分からぬ。 

Q59 「来世(前世)」を信じますか?
A59 と言うより、私はそれらを知っている。

Q60 「神」を信じますか?
A60 そいつも知っている。それは雲のうえで白いうわっぱりを着て、尊大に立っている白ヒゲの爺(じじ)ィである。



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往復書簡/二通目の手紙〜三通目の手紙



[往復書簡/二通目の手紙]


陸田 真志 様

 先日は早速の御手紙どうもありがとうございました。お礼のご挨拶が遅れてしまったことお許しください。
 先日の陸田様からのご返答の件(手紙のやりとりや面会、又は面談は辞退したいという件)で、果たして『人間・陸田真志』を描く事ができるのだろうか。ということに対して、私達は議論に議論を重ねました結果、(イエス・ノー形式の手紙だけ)陸田様の本当の姿を描ききることは困難であろうという考えに至りました。
 陸田様とは、偏見のない、限りなく真実に近いレポートをすると前回の手紙でお約束している以上、無責任なレポートはするべきではない。という結論になりました。しかしながら、正直申しますと私達は、陸田様を“研究”したいという想いを未だに拭いきれていないのも事実であります。
 よって私達と致しましては、「イエス・ノー形式状」のものだけで、いかにして陸田様の“真実に近い姿”をレポートすることができるのか、なおかつその姿を有効的に作品に取り入れていくべきなのかということを只今、全員で思案している次第でございます。
 なお、今後の方針、質問状は近いうちにおってご報告させていただきたく思います。今後とも陸田様の温かいお心添えをよろしくお願い致したいと共に、陸田様の執筆活動のお邪魔にならぬ様、心掛けるつもりであります。
 失礼ながら、本日のところは、前述のご報告と返答のお礼の手紙とさせていただきます。
 
 日本映画学校・映像科一学年
 HゼミナールA班 一同

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 拝復

 御手紙拝読致しました。何か、皆様の熱意を削ぐ形となり、誠に申し訳ない事です。お詫び致さねばなりません。
 只、先の手紙にて記しました「イエス・ノー形式」のものとは、あくまで「例えば」の話であり、どうしても、そうでなければならぬ、という訳ではないのです。要は「簡潔」なものであればよい、という程の意味です。
 で、もし、今「質問状」を作成されているなら、という事でお話致しますが…先の御手紙にて「興味本位(の研究)ではない」という事を強調して居られましたが、私は「興味」あるものでなければ、「研究」する意義も価値もないと思います。又、当然、その研究成果(?)を見せられる他の生徒さんや先生方にとっても「興味」の湧くものには、なるまい、と思えます。 
 従って、皆様の研究も「興味本位」で“なくてはならぬ”と考えます(何においても結局はそうですが)。あまり「哲学」や「精神世界」といったものにこだわらず、なんでも皆様にとり、本当に興味ある事(例えば、食べ物・ファッション・スポーツ・遊び・恋愛・TV番組・映画・犯罪(殺人を含む)・SM(風俗業)など)で御下問頂いた方が宜しいかと存じます。
 それらの内で、私の興味(インタレスト)を引くものが、皆様と私の「間に・あるもの(inter-est)」即ち、個人的それを超えた、真の「interest(インタレスト)」であり、結果として、それが他の人々を、皆様と私との「間に・保持する(inter-tain)」即ち、真に人を楽しませる事としての「entertain(ment)エンターテイメント」になると思えます(故に、何においても、真の「藝術・学術」は、所謂「大衆・芸能性」と一致します)。
 そうする事で、皆様だけでなく、他の人々も(私には直接会わずとも)、「相互に・見える(inter-view)」ことが、即ち、真の「interview」が可能になり、そこから、皆様全員が学んで居られる「映画」には欠かせぬ「絵」が、描き出されていく事と存じます。
 本日も走り書きで、相変わらずの乱字・乱文ですが、宜しく御判読頂けますように、失礼致します。

 敬具

 2004年6月1日 陸田拝


[往復書簡/三通目の手紙]


陸田 真志 様

 先日は御丁寧な御手紙、誠にありがとうございました。陸田様の御気遣い、大変有難く感じております。熱意が削がれるどころか、自分たちの「柔な精神」を自覚し、羞恥の念にかられる思いです。「塀の外側の社会」にいる私たちは、本来もっと「自由」であるべきですし、「興味本位」で生きてこそ、大きな価値を得るのでしょう。
 在監者である陸田様とのやりとり(これまでの人生におけるより特異な体験)は、私たちに、想像を超えた「変化」をもたらしております。陸田様を<研究対象者>に選んだことに対して、あらためて強い意義を感じると共に、心より感謝致します。ありがとうございます。
 早速ですが、今回の陸田様の御好意にあやかる思いで、私たちHゼミナール・A班一同による質問をいくつか書かせて頂きます。“誘導的なもの”を排除するために、箇条書きという手段を取らせて頂きました。そのため、言葉が足りなかったり、しばし抽象的あるいは直截的な表現となっておりますが、全く悪意はございませんので、どうぞ御自由に解釈して頂き、そのうえでお答え下されば幸いです。簡潔に答えられない質問や、陸田様の興味を引かない質問等は、お答え頂かなくても結構ですので、ご協力の程宜しく御願い致します。

 私たちは、陸田様を取材させて頂くにあたり、陸田様という特殊(一般)、人間という普遍(真理)に対する『興味』を持っており、それがこの「研究」の原動力になっていると考えます。「エンターテイメント」の名のもとに、ご無礼な質問を重ねる恰好となりましたが、どうぞお許しください。私達の研究内容、及び発表が「個人のそれを超えた真の『interest(インタレスト)』」になるよう日々活動しておりますので、引き続き温かな御対応の程、よろしくお願い申し上げます。 

 追伸:心ばかりではありますが、差し入れをさせて頂きたいのですが、御好みのもの、御必要なものは、ございますでしょうか。できればお教え頂ければと思います。
 又、賢志氏に手紙を御送りさせて頂きたいのですが、差し支えはございませんでしょうか? 合わせて御検討下さい。
 
 2004年6月10日 日本映画学校・映像科一学年 
            HゼミナールA班 一同

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 拝復

 質問状の回答、送付致します。言葉の足らぬ所もあるかと思いますが、ご勘弁下さい。
 差入れ(郵券も含む)は、“本当に”必要ないというか、むしろ邪魔なので御気遣い下されません様に、心からお願い申し上げます。
 それと双子の兄は、現在、刑務所にて受刑者となっている為、「未決囚」の私とは違い、親族の者以外とは、連絡は取れぬ様になっております。尚又、今後も彼の事は、そっとしておいてやって下さい。恐らく皆様にも迷惑をかける事と思いますし(池田氏に対しても、そうだった様に)。あれは一人にさせねば、又、同じ事(殺人)を犯すと思えますので。どうぞ、宜しくお願い申し上げます。では、相変わらずの乱筆ですが、宜しく御判読の程を。
 
 敬具

 2004年6月14日 陸田拝

 追記:さぞ、読み辛い事と存じます。で、御手数を掛けますが「発表」の前に、一度そちらで、清書なり、又は出来ればワープロ打ちなりした原稿(ナレーション用?)を送って下さい。それを私が読み返して(チェックして)から、「発表」なさって下さい。宜しくお願いします。



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